近世自然法

【関連項目】
(執筆:三成美保/掲載:2014.03.19/初出:三成他『法制史入門』1996年、一部加筆修正)

自然法

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トマス・アクィナス(15世紀、カルロ・クリヴェッリ作)

  • 自然法(ius naturae, Naturrecht)は、実定法に対する概念である。実定法との関係から、自然法は、①絶対的自然法と②相対的自然法とに区別される。前者①は、時代・地域・文化をこえて普遍的に妥当する絶対的に正しい法で、自然法に反する実定法を無効にする効力をもつとされる。後者②は、絶対的自然法は存在しないか、あっても人間には認識できないという前提のもとに、歴史や経験から推論された相対的に普遍的な自然法である。相対的自然法は、その効力も限定され、実定法の補充法、立法・裁判の指針、法の体系的説明手段としての役割しかもたないとされる。
  • 自然法思想の起源は古く、古代ギリシア・ローマにさかのぼる。とくにストア派は、宇宙全体の根元的法則をロゴスとよび、自然の法則・社会の正義・人間の理性をロゴスの現象形態であるととらえた。中世になって、古代の自然法思想は、教父たちによりキリスト教思想とむすびつけられていく。自然法は神法と同義だとみなされたのである。なかでも、トマス・アクィナス(1225-1274)は、すべてのものは神の計画にもとづき、その使命をおびて創造されたとし、人間社会もまた神の知性に発するいくつかの根本的な自然法原則にしたがって方向づけられていると唱えた。

理性法

  • 17-18世紀の近世自然法は、合理主義哲学にもとづき、神学から切り離されて世俗化した点で、過去の自然法とは区別され、「理性法」とも言われる。また、自然法は、「書かれた理性」としてのローマ法の権威を内面的に否定し、自然法の精神に即した新しいタイプの実定法を要請していくことになる。
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グロティウス『戦争と平和の法』(第2版表紙、1631年)

  • 自然法の世俗化へのきざしは、すでに16-17世紀、アメリカ大陸先住民の改宗問題に直面したスペインでみられた。これをうけて、自然法を完全に世俗化したのが、オランダのフーゴー・グロティウス(1583-1645)である。かれは、主著『戦争と平和の法』(1625)で、自然法の根拠を「理性(ratio)」にもとめている。それには2つの合理的背景があった。①16世紀末のオランダでは宗教戦争と内乱がつづいており、神がいなくとも、宗教・民族・時間をこえて戦時にすら妥当する法が必要とされた。②海洋国家オランダが発展するためには、「航海自由の原則」をとなえる必要があった。民族をこえて、戦時にも妥当する最低限の規範があるとのグロティウスの自然法論は、近代国際法の基礎となった。しかし反面、かれの自然法論は、体系性を欠き、絶対的自然法を強調するあまりに、個々の国での具体的な改革立法には適さなかったのである。
  • 自然法思想とデカルト(1596-1650)的な自然科学的・数学的証明方法とをむすびつけて、ドイツで自然法を体系化したのが、サミュエル・プーフェンドルフ(1632-1694)とクリスチャン・ヴォルフ(1679-1754)である。しかし、あまりに数学的な決定論にもとづいた自然法の絶対視には、当時から嘲笑と警戒の声があった。クリスチャン・トマジウス(1655-1728)は、自然法は法に属する問題ではなく、倫理に属するとして、自然法の無制約な強制には懐疑的であった。しかし、自然法の相対化にもっとも大きく貢献したのは、フランスのモンテスキュー(1689-1755)である。かれは、『法の精神』(1748)のなかで、各地の自然・文化・風俗などに応じた法形態がありうると述べ、自然法の相対化をなしとげた。

社会契約論

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ルソー

  • 自然法的国家論の基礎をなすのが、社会契約論である。それによれば、人間社会は、自然状態と国家状態(市民状態)に分かれる。自然状態では、自然法が妥当し、すべての人間は自由・平等な個人として社会組織なしに生活していた。しかし、自然状態のもとでは、個々人の権利が確保されるよう配慮する社会組織がないため、自然的権利義務は、かならずしも十分に保障されない。そこで、人びとは、自然的自由を放棄して、社会契約をむすび、共同生活を営むために国家組織・市民社会をつくって、国家状態に移行したというのである。
  • 社会契約論の目的は、国家の存在意義、すなわち、国家は市民の自由・平等・所有を保障するために生まれたことを証明することにあった。しかし、そこから導きだされた結論は、二つに分かれた。それは、人びとが自由を放棄した見返りはどうあるべきかということについての考え方が異なっていたからである。イギリスのロック(1632-1704)や、フランスのルソー(1712-1778)は、代表民主制を理想の政体とみなし、立法権は市民の代表である議会に属し、政府もふくめたすべての人・機関が法律に拘束されるという「法の支配」を主張した。ドイツのプーフェンドルフやヴォルフは、立法権は君主にあり、法律は立法者の意思であり、君主と官僚制が市民の安全と福祉を保障すべきだとした。

自然法的立法論

  • 望ましい政体についての考え方は分かれたけれども、自然法=社会契約論の立場から生じた、法律への新しい要請は、共通している。それは、①人道性への配慮、②自由・平等・所有という価値の保障、③法律の明瞭性・単純性・明確性である。
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Cesare_Beccaria_1738-1794

  • ①は、刑法・刑事手続の改革をもたらした。啓蒙主義的な新しい刑法思想の代表は、イタリアのチェーザレ・ベッカリーア(1738-1794)である。かれの小冊子『犯罪と刑罰』(1764)は、各国語に翻訳されて、ヨーロッパ中に広まった。そのなかで、ベッカリーアは、罪刑法定主義や死刑の廃止を唱えている。手続にかんしては、拷問廃止への努力があげられる。18世紀のうちに、プロイセンでもオーストリアでも拷問が廃止された。糾問主義手続そのものは、19世紀に自由主義が発展するまで克服されなかったが、克服への過程に自然法思想が大きな影響を及ぼしたことは否めない。
  • ②は、啓蒙期法典編纂が、社会改革の課題を負わされる原因となった。モンテスキューは、政府に対して市民の自由を保障するには、三権分立と、法律による司法権の拘束が必要不可欠であると論じた。これに対して、プロイセンでは、行政権が強く、身分制が温存されて、人権保障は不十分にとどまった。
  • ③は、啓蒙期法典編纂を規定する2つの方針を導きだした。
    (1)法の安定。市民があらかじめ簡明な法律を読むことができれば、自由の限界や国家にたいする義務を知ることができ、法の安定化に役立つとされた。
    (2)法律による司法・行政官僚の拘束。市民も、裁判官も、さらには君主でさえも、法律に服するべきであるとされ、そのためには法律は包括的かつ完璧でなくてはならないとされた。
  • しかし、実際の法典編纂では、いくつかの問題が生じた。第1に、法典編纂の方法として、国家生活・社会生活の全分野にまたがる単一の総合法典を編纂するのか、家族法とか商法などの分野別に法典を制定するのかを選ばなくてはならない。第2に、すべての市民にとって読みやすいものにするという簡潔さの要請と、裁判官や官吏のあらゆる恣意を排除するための完全性の要請とはしばしば矛盾する。後者を重視すればするほど、あらゆるケースを想定して、法典は煩雑・難解にならざるをえないからである。

ドイツ国法学(帝国国法論)

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Johann-Stephan-Puetter

  • 中世の国家論で議論の焦点は、教権と帝権との関係におかれていた。国家論は、いまだ神学の影響を免れていなかったのである。16-17世紀に、国家論もまた世俗化する。アリストテレスに依拠して純理論的なレベルで国家や国法が論じられはじめたのである。とりわけ、ヘルマン・コンリング(1606-1681)によるロタール伝説の否定は、ローマ法から自立した帝国国法論(ドイツ国法学)が発展していく重要なきっかけとなった。
  • 帝国国法論は、2つの課題を担っていた。①帝国の法的性格にかんする議論、②現行の帝国法の全体的叙述である。17世紀には①が中心で、18世紀になって②が進展する。
  • ①帝国の法的性格をめぐる議論で、その核におかれたのは主権論である。皇帝か帝国等族のいずれが主権の担い手であるのかが論じられた。プーフェンドルフは皇帝主権をとなえ、リムネウス(1592-1663)は帝国等族が帝国の主体であると考えた。18世紀後半、ヨハン・シュテファン・ピュッター(1725-1807)が、帝国は完全主権をもった諸国家の連合体であるとするまで、こうした論争は続けられた。
  • ②帝国法の叙述についてまず求められたのは、散在する雑多な史料の編纂刊行である。人文主義のゲルマン学研究は、これとむすびついて発展した。しかし、真の意味で体系的な帝国法叙述が完成したのは、18世紀、ヨハン・ヤーコプ・モーザー(1701-1785)とピュッターの業績である。