目次
【法制史】神聖ローマ帝国とその諸機関(三成美保)
⇒*【特集8】法制史(西洋)
2015.01.11掲載(初出:三成他『法制史入門』1996年) 三成美保
帝国改革
帝国改革の試みはすでに15世紀にもあったが、実際に改革がはじまるのは、皇帝マクシミリアン1世(位1493-1519)のときである。改革の目的は、帝権とマインツ選帝侯ヘネベルク(位1484-1504) が指導する帝国等族との関係の調整にあった。改革により、つぎのような法・機関・制度が生まれた。
①永久ラント平和令の制定(1495年)。これにより、帝国内ではいっさいの武力行使が禁じられた結果、16世紀のうちにフェーデは消滅し、かわって個人的な決闘が登場する。
②常設の帝国最高裁判所たる「帝室裁判所(Reichskammergericht)」 の創設。
③ラント平和令を実施するための「帝国管区(Reichskreis)」の創設。当初6、のちには10管区となった帝国管区は、帝国軍制、税制の基礎として利用され、一定の役割を果たす。
④「帝国統治院(Reichsregiment)」の創設。これは、皇帝から政治的権利を剥奪し、等族による帝国政府の運営をはかるという試みであったが、短命(1500-1502年、1521-1530年)におわった(※ラント平和令については⇒*【法制史】封建法・レーエン法(三成美保))
帝国改革は、帝権を中心とする国家形成という皇帝側の目的は果たせなかった。勝利したのは、等族側であった。その結果、帝国は、行政権行使を断念せざるをえなくなるが、立法・司法の面では、一定の機能を担いつづける。
帝国の立法
帝国における立法機関は、帝国議会である。近代主権論の影響で、ドイツでも、領邦国家では君主の立法権が強調された。これにたいして、帝国では、皇帝と帝国等族の協定としての立法という形式が、帝国崩壊まで維持された。帝国等族からなる帝国議会はみずからを帝国の意思を代弁するものと位置づけた。神聖ローマ帝国では、皇帝と帝国(帝国議会)が二元的に存続したのである。
帝国議会は、三部会制をとっていた。選帝侯会議は、7-10票の選帝侯票をもっていた。聖俗諸侯からなる諸侯会議は、全体で100票をもっていた。原則として、在位諸侯1名につき1票がわりあてられたが、世俗票4と教会票2は集合票であった。1582年以降、諸侯票は支配権に固着するようになり、票数が固定化する。帝国諸都市かなる都市会議は、1648年に投票権を取得したが、全体で2票しかもたず(ライン都市会議1、シュヴァーベン都市会議1)、十分な発言権を保障されなかった。農民は、代表者をもたなかった。
1489年、帝国議会での議事手続が定められた。まず皇帝によってーーのちには選帝侯の同意を得てーー、帝国議会が召集される。そこでだされた皇帝の提案を、選帝侯、諸侯、都市が、それぞれ別個に部会を開いて審議する。皇帝を排除しておこなわれた各部会での審議ののち、マインツ選帝侯の司宰のもとに、三部会の合意がはかられる。宗教や租税など、立法の性質によっては多数決原理が廃されることもあった。帝国議会の議決は、皇帝の同意によって法的効力を取得し、1497年以降、一回の議会でおこなわれた諸議決がまとめられて、「帝国最終決定(Reichsabshied)」 として、議会閉会時に公布された。議会の事項管轄は無制限であったが、しだいに権限を麻痺させられていく。 1654年の最終決定ののち、1663年から帝国議会は永久的な会期をもつものとなり、常設の使節会議へとかわる。また、帝国議会の閉会中には、帝国代表者会議がひらかれた。代表者会議の議決(Conclusa)もまた、拘束力をもった。
帝国立法は、そのときどきの緊急問題の処理を優先し、かならずしも、長期的・計画的展望をもったものではない。しかしそれにもかかわらず、とりわけ16世紀に、いくつかの重要な帝国法が公布された。何度も改正された「帝室裁判所法」(1495、1521、1548、1555年)、実務の上で重要な文書制度を規制した「公証人法」(1512年)、膨大な「帝国ポリツァイ条令」(1530、1548、1577年)(⇒*【法制史】ポリツァイ条令)、後述する「カロリーナ刑法典」(1532年)(⇒*【法制史】(史料・解説)カロリナ刑法典(1532年)) などである。いずれも、領邦国家の立法に、長いあいだ影響をあたえつづけた。
⇒帝国議会の開催年と議題等については、http://de.wikipedia.org/wiki/Liste_der_Hof-_und_Reichstage_%28Heiliges_R%C3%B6misches_Reich%29
⇒神聖ローマ帝国の法史料(リスト)については、http://de.wikipedia.org/wiki/Kategorie:Rechtsquelle_%28Heiliges_R%C3%B6misches_Reich%29
帝国の司法
16世紀以降、帝国には、二つの最高裁判機関が存在した。シュパーヤー、のち、ヴェツラーにおかれた「帝室裁判所(Reichskammergericht)」とヴィーンの「帝国宮廷法院(Reichshofgericht)」である。このような機関がうまれた背景には、裁判権をめぐる帝権と帝国等族との対立があった。
中世の国王は、最高の裁判官として、人的裁判権を行使することができた。国王への訴えが増え、複雑になった結果、訴訟処理の諮問機関としてうまれたのが、「王室裁判所」(1415年)である。これは、国王の国庫にかんする事件について国王みずから判決を下したが、もはや、裁判集会型法発見によらず、法律専門家が関与する新しいタイプの裁判所であった。1461-75年、国王は、財政難を解消するため、王室裁判所を帝国等族[パッサウ司教、のちマインツ大司教]に賃貸する。この間、王室裁判所は活性化した。ところが、国王のもとに復帰した裁判所では、不開催や裁判官の恣意的任命などがくりかえされ、等族の苦情がたかまる。1495年、帝国改革を機に、両者の妥協の産物として、帝室裁判所が創設された。その後いくどか停止されたのち、1548年から恒常的機関となった。
帝室裁判所は、長官(主席判事)(1名) 、陪席判事(16-50名)、国庫検察官[=検事](1名)、書記官・法廷弁護士・訟務弁護士・廷吏その他から構成された。長官は、聖俗の帝国貴族のなかから選ばれ、陪席判事は帝国管区ごとに帝国議会で推薦され、半数は貴族、半数は法律家が任じられた。帝室裁判所の管轄領域は、つぎの三つである。①帝国直属身分に関する紛争の第一審(ただし、仲裁手続が先行)、②ラントの最高裁判所で敗訴した者の上訴審、③帝国ラント平和裁判所。実際の訴訟は、しばしば三領域にまたがり、帝室裁判所の受理件数は、18世紀で年間230-250件を数えた。
初期の訴訟の大多数は、②の「上訴(Appellation)」であった。しかし、プロイセンやバイエルンなどの大領邦は、17世紀後半に「不上訴特権(privilegium de non appellando)」を獲得し、帝国の司法権を事実上、排除することに成功する。16世紀後半には、宗教対立の影響で、③のラント平和破壊訴訟が多くなる。18世紀には、①の帝国直属身分に関する訴訟が増える。とりわけ注目すべきは、租税・逮捕監禁などの君主の違法行為にたいする臣民の訴訟である。この種の訴訟では、しばしば臣民側が勝訴した。帝国に判決を執行する強制力がなかったために、君主が判決を無視して、訴訟が一世紀にもわたってつづくこともあったとはいえ、帝室裁判所は、帝国宮廷法院とならんで、一種の行政裁判機関として機能したのである。
⇒帝室裁判所裁判官のリストは、http://de.wikipedia.org/wiki/Kategorie:Richter_%28Reichskammergericht%29
帝国宮廷法院の前身である「帝国宮廷顧問会議(Reichshofrat)」は、帝室裁判所設置以降もなお、皇帝のもとに個人的にもちこまれた紛争を解決するための諮問機関として成立した(1497年)。1527年、顧問会議が宮廷法院に再編され、帝室裁判所とほぼ同じ管轄権を有する裁判機関となる。帝国宮廷法院は、法院長(1名)と宮廷顧問官(18-30名)からなるが、いずれも皇帝の任命によった。帝室裁判所が帝国等族色の強い機関であるとすれば、宮廷法院は等族の影響力を排除した皇帝色の強い機関であったといえよう。 18世紀の帝国宮廷法院は、帝室裁判所を凌駕し、年間2000-3000件をあつかったのである。
二つの帝国裁判所の意義は、第1に、同裁判所が帝国でのローマ法継受(⇒*【法制史】ローマ法の継受(三成美保))を促進し、それによって、帝国における法の統一と帝国の一体性を維持する装置として機能したことである。統一的な帝国立法がなかったために、法実務のために利用されたのがローマ法=普通法である。条例理論によれば、ローマ法は固有法がない場合の補充法として適用される(⇒*【法制史】中世ローマ法学ー註釈学派と註解学派)。フランスでは、固有慣習法が拡張的に解釈されて、ローマ法の適用範囲がせばめられたが、帝国裁判所では、「条例は厳格に解釈されるべし」という命題のもと、条例の範囲がせまく限定された。適用範囲がひろがったローマ法は、普通法(Ius Commune) として、地方分権的な国制構造をこえた統一的な法発展を可能としたのである。帝室裁判所での手続[カマー訴訟(Kammerprozess)]は、ローマ=カノン法にもとづいたもので、書面主義、裁判期日の確定、ローマ法的用語法の導入を特徴とする。帝室裁判所の判決を基礎とする「帝室裁判法学(Kameraljurisprudenz)」もうまれ、ラントの裁判実務にも大きな影響を及ぼしていく。というのも、学識法律家が判事をつとめる帝国裁判所では、実務教育もほどこされ、ラントの最高裁判所の判事になるには、しばしば、帝国裁判所での実務研修が重視されたからである。
第2の意義は、臣民と君主との関係にとって、帝国裁判所が果たした役割である。これには相反する二つの側面がある。一方では、日本とは異なり、臣民が合法的に君主に異議申立をする道がひらかれていたことで、臣民の伝統的な権利意識を維持することになった。他方で、その道は、フランスとは異なり、革命ではなく上からの改革を期待するというドイツ的な伝統をはぐくむのに役だった。これは、近代ドイツの形成に大きな影響を及ぼしていく。