目次
【法制史】ドイツ民法典の編纂(1874-1896年)(三成賢次)
2014.11.16 三成賢次(初出『法制史入門』一部加筆修正)
(1)前史
民法と法学
民法に関して当時ドイツで妥当していた法令は、きわめて多様であった。普通法、プロイセン一般ラント法、ライン法すなわちフランス民法典とバーデンラント法、ザクセン民法典、オーストリア民法典、さらにデンマーク法が各地でそれぞれ通用していたのである(下地図①参照)。また、法学者は、ロマニステン、ゲルマニステンのそれぞれの立場から、法の統一を主張し、私法に関して多くの体系書や教科書が発表されていた。たとえばロマニステンでは、ヴィントシャイト(Bernhard Windscheid, 1817-1892)の『パンデクテン法の教科書・3巻』(1862-70年)、ゲルマニステンでは、ベーゼラー(Georg Beseler, 18091888)の『普通ドイツ私法体系・3巻』(1847-55年)などをあげることができる。しかし、両者の融合をめざした動きは主流とはならず、ローマ法とゲルマン法のいずれかに偏重した法の統一を理論的に提示したにすぎなかったのである。
→ロマニステンとゲルマニステンについては、*【法制史】ドイツ同盟体制(三成賢次)の「歴史法学」を参照。
統一民法典編纂の開始
北ドイツ連邦の時代に、国民自由党のミーケル( Johannes Miquel, 1828-1901)らが私法の統一と民法典の編纂を求め、連邦の立法権限に関する憲法改正案をたびたび議会に提出していた。しかし、当初の議会では保守派や法統一を拒否する勢力が影響力をもっており、北ドイツ連邦憲法(後の帝国憲法)の第4条第13号にみられるように、依然として民法に関して帝国の立法権限を債権法に制限していたのである。その後、すでにみたように経済関係の統一立法や上級商事裁判所の設置が行われるなかで、ミーケルが再提出した憲法改正案が議会で可決された。しかし、これに対して連邦参議院は、南ドイツ諸邦の加盟を考慮して改正案を拒否し続けたのである。
ドイツ帝国の創設は、国家的法統一の動きを促進することになった。1873年12月にミーケルとラスカー(Eduard Lasker, 1829-1884)が共同で、民法全体に関する帝国立法権を求める憲法改正案を提出すると、同法案は帝国議会で可決され、さらに連邦参議院でも同意をえることができた。ただちに、連邦参議院を中心に編纂作業が開始されることになったのである。
(2)民法典編纂過程
準備委員会
連邦参議院は、1874年2月に5名の委員で構成される準備委員会を設置した。委員には、帝国上級商事裁判所判事(のちにベルリン大学商法学教授)をつとめるバーデンのゴールトシュミット、プロイセン控訴裁判所長官のフォン・シュミット、バイエルン上級控訴裁判所長官のフォン・ノイマイヤー、ヴュルテンベルク上級裁判所長官のフォン・キューベル、ザクセン上級控訴裁判所長官のフォン・ヴェーバーが任命され、帝国5大邦から上級の実務裁判官が選ばれた。準備委員会は、民法典編纂の「計画と方針」について検討し、同年4月に連邦参議院に意見書を提出した。意見書では、既存の特定の法典をモデルとせず独自の法典を編纂すること、地方的独自性が強い法制度に関しては各邦に留保すること、法典は指導原理とその重要な帰結を規定した体系的立法とすることなどが述べられていた。
第一草案
準備委員会の意見書をうけて、1874年7月に連邦参議院に第一委員会が設置された。委員会は11名の委員で構成され、委員には帝国の主要邦を考慮して、プロイセンから4名、バイエルンから2名、バーデンから2名、ザクセン、ヴュルテンベルク、エルザス・ロートリンゲンから各1名が選ばれていた。また、普通法、プロイセン一般ラント法、ライン法、ザクセン法の4法領域にも配慮がなされた人選が行われていた。第一委員会でもやはり司法省官吏や裁判官が多数をしめており、実務家の優位が目立っていた。彼ら実務家の多くは、これまでに一般商法典や民事訴訟法、刑事訴訟法などの立法事業にかかわってきた経験をもち、立法技術にたけていた。しかし、委員会で中心的な役割を果たしたのは、ロマニストのヴィントシャイトであった。彼の理論的影響のもとで、1888年1月にはパンデクテン法学にもとづいた体系性と厳密性とをもった第1草案、いわゆる「小ヴィントシャイト」が公表されたのである。
この第1草案に対しては、そのパンデクテン法学に規定された性格のゆえにさまざまな批判がなされた。とくに、まずゲルマニストのギールケ(Otto von Gierke, 1841-1921)は、1889年に発表した『ドイツ民法典草案とドイツ法』のなかで、第一草案が経済的自由主義と個人主義をよりどころにしていることを批判し、有機体的社会を基盤にした伝統的なゲルマン法精神の重要性を主張した。また、講壇社会主義者として知られていたメンガー(Anton Menger, 1841-1906)は、1890年の『民法と無産者階級』において、第一草案の形式的な抽象的規定、つまりその外見的平等性が無産者階級に不利益をもたらすことを指摘し、貧民の立場にたった法典の起草を求めたのである。
【解説】日本では、法典論争のあと、フランス法からドイツ法への転換が生じた。その後、日本民法典の編纂作業で参考にされたのが、ドイツ民法典第一草案である。
フランス民法典については⇒*【法制史】フランス革命とコード・シヴィル(三成美保)
民法典の成立
左右両陣営の側から批判をうけるなかで、民法典の編纂事業は進められ、1890年12月には連邦参議院は第二委員会を設置し、第一草案の修正にあたらせた。第二委員会には、当時の政治状況を考慮して4大法領域の代表、経済界の代表、さらに帝国議会の主要政党の代表(ただし、社会民主党は排除されていた)なども選ばれていたが、委員構成には司法・行政の高級官僚の優位性が現れていた。委員会は、逐条審議のもとに多くの規定の修正を行ったが、第一草案の基本構造には手をつけなかった。第一委員会のときとは異なり、審議結果は逐次公表され、1895年10月には第二草案が完成した。
連邦参議院において、ただちに第二草案についての審議が行われ、1896年1月に第三草案が帝国議会に提出された。帝国議会では、第12委員会で審議され、社会民主党の反対にもかかわらず1896年7月1日に圧倒的多数で可決された。さらに草案は同年7月14日に連邦参議院でも可決され、8月18日皇帝の認証をうけて、8月24日にドイツ民法典として公布され1900年1月1日に施行されることになったのである。ドイツ民法典は、基本的にパンデクテン法学の精神を継承し抽象的かつ体系的構造をもち、また19世紀的な自由主義原理を基礎にしていた。しかし、時代はすでに都市化、独占など現代的な問題に直面していたのであり、私的自治、個人主義の限界が現れていたのである。また他方、家族法における家父長的構造、そして民法施行法におけるラント法留保事項などドイツ社会と国家の伝統的要素も継承していたのである。