【女性】ビザンツ皇女アンナ・コムネナ(1083-1153/54)

三成 美保(執筆:2014.09.10)

◆中世唯一の女性歴史家ーー皇女アンナ・コムネナ

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アンナ・コムネナ

◆アンナ・コムネナ(Άννα Κομνηνή,Anna Komnena,1083-1153/54)

  • アンナは、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)の歴史家であり、中世キリスト教社会における唯一の女性歴史家とされる。父であるコムネノス朝の初代皇帝アレクシオス1世の伝記(『アレクシオス1世伝』)の著者として知られる。
  • アンナは、アレクシオス1世と有力貴族ドゥーカス家出身の皇后エイレーネー・ドゥーカイナの長女として産まれた。高度の教育を受けて育ち、宗教書のほか、ギリシア古典文学(ホメロス、ヘロドトス、トゥキディデス、アリストパネなど)を愛読した。また、神話、地理学、歴史学、修辞学、弁証学、プラトンやアリストテレスの哲学に深い造詣をもったと言われる。
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アレクシオス1世

◆コムネノス朝(1081-1185)

  • 1081年、マケドニア朝(867-1059)の皇帝イサキオス1世コムネノス(位1057-59)の甥で、軍事貴族コムネノス家出身の将軍アレクシオス・コムネノス(1048-1118)が、当時のドゥーカス朝(1059-81)の皇帝ニケフォロス3世ボタネイアテス(位1078-81)に対して反乱を起し、ニケフォロス3世を退位させて皇帝に即位した(アレクシオス1世コムネノス:位1081年-1118年)。
  • このとき、ニケフォロス3世の皇后マリア・バグラティオニ(1050?-1103)がアレクシオスに協力した。アレクシオスは妻エイレーネーと離婚してマリアを皇后に迎えるつもりであったが、エイレーネーの実家であるドゥーカス家の支援をとりつけるために離婚をとどまる。
  • アレクシオスは爵位体系や通貨を改革したほか、軍事奉仕と引き換えに一定の地域の徴税権などを認めるプロノイア制を導入した。また、ドゥーカス家や各地の有力軍事貴族たちと姻戚関係を結び、コムネノス・ドゥーカス家一門(「コムネノス一門」)による軍事貴族の連合政権という形で帝国を再編し、国内は一定の安定を迎えた。また、ヴェネチア共和国と同盟を結んで海の守りを固めた。しかし、この代わりにヴェネチアに関税特権などの多くの特権を認めたため、国内の商工業の衰退を招くことになった。
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ニケフォロス3世と皇后マリア

◆皇后マリア・バグラティオニ(1050?-1103)

  • マリアは、グルジア王女として生まれ、美貌と知性の持ち主として知られる。
  • マリアは、15歳で皇帝の後継者ミカエル(のちのミカエル7世)と結婚した。ニケフォロスの反乱によってミカエル7世が位を追われると、マリアはニケフォロス3世ボタネイアテスの皇后として再婚した(1078年)。先代皇帝の皇后との結婚は、皇位を安定させるためによく行われたことである。
  • しかし、マリアは皇位転覆を考えるようになり、10歳年下の将軍アレクシオスに心を寄せて、彼の反乱を支援した。反乱は成功して、アレクシオスは帝位についたが、ギリシア正教では3度目の再婚は禁じられていたため、マリアとアレクシオスの再々婚は困難であった。
  • アレクシオスは長女アンナ・コムネナをマリアの長男コンスタンティノス・ドゥーカスと婚約させ、アンナ・コムネナはマリアのもとで育つ。しかし、コンスタンティノスは若くして亡くなり、アレクシオスに息子ヨハネスが生まれて事態が変わっていく。
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セルジュク朝トルコの最大版図(1092年)

◆誤算としての十字軍到来

  • イスラム王朝であるセルジューク朝トルコ(1038-1157)にアナトリア半島を占領されたため、アレクシオス1世コムネノスは、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼した(1095年)。このとき、異教徒イスラム教国から聖地エルサレムを奪還するという名目で、皇帝は、ビザンツ帝国への傭兵の提供を要請した。けっして、十字軍のような独自の軍団を要請したわけではない。
  • 十字軍はイスラム勢力には一定の脅威となったが、ビザンツ帝国領が十字軍の通過地域となったため、人びとは十字軍による略奪や暴力に苦しみ、皇帝たちはその対応に苦慮することになる。
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ビザンツ帝国(1170年頃)

◆アンナによる2度の「陰謀」

  • 初代皇帝アレクシオス1世コムネノス(Alexios I Komnenos、在位:1081-1118)の周囲には、行動的な女性(母・后・娘など)が多く存在した。アンナもその一人である。
  • アンナは、弟ヨハネス(ヨハネス2世コムネノス:Ioannes II Komnenos、在位:1118-1143)の帝位継承に異を唱え、2回にわたり「陰謀」を企てた(1118年、1119年)。1097年に結婚した夫 ニケフォロス・ブリュエンニオス(Nikephoros Bryennios)を皇帝位につかせようと画策したのである。しかし、「陰謀」はいずれも失敗し、アンナは修道院への引退を余儀なくされた。この修道院 で、アンナは、すでに夫が手がけていた『アレクシオス1世伝』を完成させた。

【女性】十字軍時代の女性たち(富永智津子)

【史料】帝国の後継者をめぐる皇帝と皇后の対立ー皇帝(父)は息子を、皇后(母)エイレーネーはアンナを

「皇帝であり父でもあるアレクシオス1世は、他の子供達の中でもとりわけヨハネスに信頼を置いていた。彼(筆者注:アレクシオス1世)は、帝国の後継者を彼にするよう決定し......彼が皇帝であると布告することにした。それに対して、母であり皇妃でもあるエイレーネーは、あらゆる決定的な重みを、娘アンナに与えることをやめなかった。彼女は寝床を共にするアレクシオス1世の面前で、息子ヨハネスを非難し、彼のことを無分別で、怠惰であり、また健全な性格を持っていないと語り、皇帝が意見を変えるよう、彼女は絶えず訴え続けた。」(ニケタス・コニアテス(片倉2008:46から引用))

【世界史教科書から】ビザンツ帝国の変容

「ビザンツ帝国では、11世紀ごろから大土地所有者である貴族が台頭した。皇帝は、軍事奉仕とひきかえに国有地の管理権(プロノイア)を彼らにゆだねたが、やがてそれらは世襲されるようになり(プロノイア制)、皇帝権力は弱まり、社会の独自な封建化がすすんでいた。
そのころ、アナトリアではムスリムの遊牧民の活動が目立つようになり、セルジューク朝はアナトリアに進出し占領した。ビザンツ皇帝はローマ教皇に援助を求め、これを機に十字軍がおこった。…」(東京書籍『世界史B』141-142ページ)

◆史料『アレクシオス伝』

◆参考文献(日本語)

・井上浩一『ビザンツ皇妃列伝―憧れの都に咲いた花』 (白水uブックス) 2009年
・井上浩一「アンナ・コムネナ『アレクシオス伝』ー著者問題をめぐって」『人文研究』(大阪市立大学大学院文学研究科紀要)54-2、2003年、87-113ページ
・片倉綾那「ビザンツ皇女アンナ・コムネナの帝位への挑戦-アレクシオス1世コムネノスの後継者争い(1118-1119年)をめぐって」『ジェンダー史学』4、2008年(→全文:PDF
・佐伯(片倉)綾那「ビザンツ皇女アンナ・コムネナによるヨハネス2世コムネノス批判」『女性史学』24、2014年、12-27ページ