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【合評会報告】高校世界史の教壇から『歴史を読み替える ジェンダーから見た世界史』を読む(長野県高等学校教員 小川幸司)
2014年7月27日(日)比較ジェンダー史研究会の公開シンポジウムにおける報告
執筆:小川幸司(長野県高等学校教員:掲載:2014.07.28)
はじめに
本書は、私にとって、こんな本があったらいいのに…と願ってきた待望の一書である。執筆に携わった方々の多大な労苦を想像しながら、全314ページのそれぞれの文章を、私は実に興味深く読んだ。私の周囲でも「この本は面白い」と高く評価する声があちこちで聞かれている。
かつてオランプ・ド・グージュは『女性と女性市民のための権利宣言』を執筆し、フランス人権宣言のパロディーのような形で、両性が共生する社会のイメージを鮮やかに描き出した。今回の『歴史を読み替える ジェンダーから見た世界史』もまた、高校世界史の教科書のパロディーの形をとり、男性と女性、そしてその二つの概念だけではとらえきれない人々の多様な姿が織りなす、豊饒な歴史像を描き出した。山川出版社の『詳説世界史』の水色の表紙に似た、濃い水色を基調とする装丁に、楔を打ち込むかのような黒色のアクセントの中に書名を浮かび上がらせているのは、山川世界史に対するパロディーであると私は読みとった。(たぶん、深読みのし過ぎですね。)
さて、高校の世界史教育にとっての本書の意義を以下に考えよう。
1 高校世界史教育における本書刊行の意義
長野県の高等学校で四半世紀のあいだ世界史を教えてきた者として、痛切に感ずるのは、現行の世界史教育は、ジェンダー・バイアスを強める機会にしかなっていないという点である。
世界史の教科書に登場する女性の代表格は、則天武后やカトリーヌ・ド・メディシス、マリ・アントワネット、西太后といった、政治を乱した「悪女たち」か、エリザベス1世やヴィクトリアといった、「よく頑張った女王」である。後者はあくまで男性君主に恵まれなかったがゆえの例外的な存在であるかのように描かれ、前者は本来男性がやるべき政治の領域に乱入した強烈な個性が強調されている。あとはレズビアンの語源だというエピソードをまぶしてサッフォーが言及され、ジャンヌ・ダルクとリリウオカラニとローザ・ルクセンブルクの悲劇や、インディラ・ガンディー、コラソン・アキノといった現代の政治家が、その名前だけ紹介される程度である。
確かにかつてに比べれば、ストウやキュリーから「夫人」の呼称が外されて、ごく小さな一歩の前進はあった。(でも高校現場では男性教師が無自覚に「ストウ夫人」と板書しているに違いない。)古代ギリシアのアテネには「奴隷・在留外人・女性には参政権がなかった」とか、フランス革命の国民公会は「男性普通選挙による」ものであったといったように、直接的または間接的な叙述で、女性が政治の領域から遠ざけられてきたということを、高校生は学んでいる。そして第一次世界大戦後に各国に女性参政権が広まり、ああ、めでたし、めでたし…ということになる。そこに存在しているのは、ひどく単純な進歩史観であり、参政権の有無で女性の歴史が単純化されてしまっている。
この状況に一石を投じようと、私が関わった教科書『世界史B』(実教出版)では、14か所にわたって「世界史のなかのジェンダー」というコラムを高校生に提示した。「古代ギリシアの女性」、「イスラームの女性」、「近代家族の家族・女性・子ども」、「総力戦と女性」などと題した、まとまった分量の文章を載せたのである。しかし「ジェンダー」と冠しながら単なる女性史にとどまっているし、ジェンダーを学ぶことによって歴史像そのものが刷新されるというレベルには到底及んでいない。実際に教科書を作成して痛感したことは、執筆者である私たち自身が、「ジェンダーから見た世界史」の全体像を掴みきれていないという現実であった。書くことに十分な自信が伴わないのである。ゆえに複数の執筆者が書いた内容のあいだも円滑につながっていかない。
ジェンダーを視野に入れた世界史教育をしたいのだが、ベースになる基礎的な教養がないというもどかしさを、多くの世界史教師たちが共通して抱いてきたはずである。「西洋史」や「中国史」、または「イギリス史」や「ドイツ史」、「アメリカ史」という括り方でのジェンダー史の概説書はあったのだが、その上位の「世界史」という視野におけるジェンダー史の概説書が、存在しなかったからである。
本書は、まさに「世界史」的視野でジェンダーを考える嚆矢となった。その意義はいくら強調してもしすぎることはないであろう。
2 本書は高校世界史の何を変える力があるのか
そこで本書が、高校世界史の何を変える力を持っているのかについて、考えたい。
第一に、人間に関わる物事はどれも歴史的に形成されてきたものであり、今後も未来に向かって変化していくものである(もっと言えば、私たちが変えていくことができる)という人間観を、本書は高校生に投げかけてくれる。私は、現行の膨大な知識を暗記させるだけの高校世界史は「素朴な分類学」のレベルにとどまっており、そのような分類と暗記だけの知のありかたでは、世界の様々な事象を固定的に認識するだけになってしまい、世界を変革する主体が育たないと、現状を事あるごとに批判してきた。本書は、性差を男性と女性のみならずLGBTにまで広げたうえで、それらが時々の権力構造の中でうみだされた世界観・人間観によって差異化されたものである(p.14)ことを、一貫して記述している。何が男性的なるもので、何が女性的なるものであるのかも、時代や地域によって千差万別の姿をとることがわかる。そして、同性愛と異性愛の区別そのものが、近代的な発想であることを指摘している(p.19)。その中で「ジェンダーの平等や公正」(p.10)を実現するためには、私たちがどのような世界観・人間観をもつべきなのかが、広い視野と自由なアプローチのなかで模索できるようになっている。
第二に、ある時代や地域におけるジェンダーのありようを描くときにも、それをステレオタイプのように断罪(または賞揚)することをせず、そのありようの複合的な像を描くことに細心の配慮を払っている。本書の「歴史を読み替える」という本質は、従来の像をひっくりかえすこと自体に目標があるのではなく、従来の像だけではとらえきれない複合的で豊かな人間のありようを描き出すことに目標がある。例えば、古代中国の女性を儒教的な家父長制のなかで論じながらも、その一方で道教的な男の陽の気と女の陰の気が対等に存在するという見方も存在したことを指摘している(p.19)。または1920年代の国民革命が纏足を否定してそれをほどかせたとき、「だが、長いあいだかけて加工された小さな脚を元に戻すことはできず、上からの纏足解放は、すでに纏足していた女性の心身に大きな苦痛を与えた」(p.124)という見方を提示する。
ヨーロッパ史においても、たとえば宗教改革によって離婚が可能になったという通俗的な見方に対して、「離婚原因を特定するために裁判所が関与し、不貞行為や悪意の遺棄などの場合に限って離婚が認められた」のであって、「離婚の自由はない」(p.134)と論じている。さらに言えば、宗教改革を通じて強まったのは、絶対君主による社会風俗の統制であり、そのセクシュアリティの管理の強化と、裁判所の認定によって離婚が可能になったということが、表裏の関係であることが浮かび上がってくる。ただ単に、ああいう面もあればこういう面もあるというふうに並列するのでなく、複合的に描いたことが、その時代の歴史の特質をより鮮明に浮かび上がらせることに成功しているわけである。
第三に、「世界史」という視野でジェンダーを論じることで、なぜジェンダーのありようがそうなっているのかという理由を浮かび上がらせようとしている。その理由を考えるからこそ、世界史は面白いのである。たとえば、近世の大航海によってアジアにやってきたヨーロッパの白人男性が「現地妻」をもったことについて、ともすれば白人男性が「現地妻」をその場限りの「愛人」にしたといった通俗的な発想に陥りがちなところを、「現地事情に通じた商業パートナー、財産管理人などさまざまなタイプ」の「現地妻」があったであろうと論じ、むしろ「現地妻」の活躍にヨーロッパのアジア貿易が依存していたことを指摘している(p.131)。そもそも扶南の建国神話にある、インドのバラモンが現地の女王と結婚して建国したというエピソードも、「現地妻」のアナロジーであろうと言う。すでに地域間の交易のネットワークが発達していたアジアにやってきたヨーロッパ人にとって、現地での交易の情報を確実に教えてくれ、また現地での財産管理を遂行してくれる人物が必要であることは言うまでもない。そのような人物が自分を裏切らないためには、妻であったほうがいい。さらには東南アジア社会における「非父系制的な基層文化」(p.56)も関係しているのであろう。…このように「現地妻」の活躍の背後にあるアジア交易のありようや、東南アジアの基層文化といった、いくつもの「理由」が浮かび上がってくるからこそ、「現地妻」という、一見すると私的領域の些末な事柄と思われるようなジェンダーのありようが、経済や政治・文化と結びついて世界史の総合的なイメージをつくる素材になるのである。歴史的事実どうしが、つながって理解されてくるのである。
第四に、本書は見開き2ページで一つの節をつくるというスタイルで、本文を左側に圧縮して、右側に文字史料や図像を配置しており、本書を利用した討論やレポート作成といった能動的な学びを可能にさせている。見開き2ページのこのスタイルは、『ドイツ・フランス共通教科書』(邦訳は明石書店、2008年)に通ずるものである。先述した「素朴な分類学」を脱するためには、世界史の授業のなかで、討論したり考察をレポート作成したりできるような「問い」が、教師から生徒に向けて投げかけられねばならない。本書の中にそうした「問い」は明記されていないけれども、読者がそれらの「問い」を自分で考えることが十分可能である。そこに描かれている歴史像が複合的なものであり、かつその理由がきちんと提示されているからこそ、「問い」が誘発されるわけである。
例えば、19世紀から20世紀初頭の東南アジアについて、そこで「「現地妻」と「売春婦」に対する巨大な需要」(p.220)が生まれたというとき、「ここでいう「現地妻」は大航海時代の頃のそれと比べて、どのような点が同じで、どのような点が異なるのかを論じてみよう」とか、「異なっているのはなぜか、その理由を考えてみよう」、「非父系制的な基層文化の歴史的影響は、現在の東南アジア社会のどんなところに見られるだろうか」といったように、いくつもの問いが連鎖的に生まれてくるだろう。
歴史的事件の羅列だけでは「問いかけ」は生まれない。事件が人間の生きる具体的な姿とともに語られるから、「これについて君はどう考えるだろうか」という問いかけが生まれるのである。19世紀の東南アジアについて、それぞれの地域が何々戦争で列強の植民地になったという事件を暗記するだけでは、「問いかけ」が生まれるはずがない。列強の植民地支配のありようが、「現地妻」という人間の生きる姿を通して見えてきたときに、「問いかけ」の可能性が生まれてくるわけである。
そして、問いかけの答えが各人の独善に陥らないようにするためには、答えのために参照する事実の系列が、時代別にも地域別にも多様なほうがよいのである。そのような人間の生活の具体的なありようと、多様な事実系列の双方を、本書は兼ね備えている。
3 本書が未来にどう歩むべきか
では、高校世界史教育の立場からみた本書の改善点について、四点に絞って述べたい。本書の意義を高く評価したうえで、さらに本書が未来に向かってステップアップするためにはこういうことも考えられるのではないか、という私見である。
第一に、「世界史」は「日本列島を含んだ世界の歴史」であるべきである。現行の高校世界史が単なる外国史になっているのは画竜点睛を欠くものであり、様々な地域を学んだことは、たえず日本列島の歴史をその中にどう位置付けるかということに、つながっていかなければならない。その意味で、本書の第3章、第4章、第7章、第12章、第13章、第14章、第15章のそれぞれ章末には、「特論」として、「日本列島のジェンダー」を世界史に位置付けるような文章があるとよいのではないだろうか。本書の姉妹編として『ジェンダーから見た日本史』が刊行される予定だとしても、本書自体に日本列島史を加筆していただきたいと思う。
第二に、全体の章立てが現行の高校世界史(とくに山川世界史)に従っているため、それぞれの時代・地域におけるジェンダーの歴史の大きな流れが、全体構成のなかにうまくいかされておらず、細切れになってしまっているきらいがある。「はしがき」で「本来なら、ジェンダー視点から、時代区分や地域区分の見直しを含めて、歴史学の構想自体の読み替えも提案すべきであろうが、残念ながら、現時点ではそこまでは到達していない」と書かれているように、未来における次の書物を俟つべきものなのかもしれない。しかし、本書の全体構造を維持したままでも、それぞれの節で描かれた歴史像の意味を各自がもう少し論じきることは可能であろう。例えば、すべてを見開き2ページにおさめなくてもよいのではないだろうか。本書の大きな流れを明瞭にするために、あえていくつかの節を4ページにして、丁寧な叙述をするという改良をしてみてはいかがであろうか。私見では、近代社会のなかで形成された「性の二重基準」や「公私二元的ジェンダー秩序」、「リスペクタビリティ」といったものの歴史的帰結として、20世紀の世界大戦のさいの女性の悲劇があり、慰安婦の悲劇もそうした大きな文脈の中で見つめ直すべきであろうと思われるし、私自身はそのような授業をこれまで重ねてきた。以上のような理由で、第13~15章のいくつかの節は、より丁寧な叙述をすることが望まれる。
第三に、見開き2ページに押し込めるために、文と文のつながりを簡略化して、文意が専門外の読者には読みとりにくい箇所が、いくつもある。こうなってしまったのには、執筆者たちの多大な苦労があったであろうと想像している。世界史の教科書を書く作業にも同じような課題がともなうからである。これを解決するためには、文意が通じにくい箇所については、一つか二つ、話題そのものをページから削るしかないのではないだろうか。書いているときは、どうしてもこれを盛り込みたいと思うのだが、刷り上がったものを見ると、なくてもよかった…と冷静になれるものである。カタカナ用語が定義抜きで登場するような箇所、理由付けがとばされて結論がいきなり出てくるような箇所などは、要注意である。また本書の中では、各章の冒頭におかれた「概説」が、どうしても読みにくい。内容を盛り込みすぎているからである。また右ページの史料についても、無理に入れた短すぎる史料については、それを削って、他の史料を充実させるなどの改良が必要であろう。
第四に、ヒロシマ・ナガサキからチェルノブイリ・フクシマまでを総合的に視野に入れた、「核開発とジェンダー」というテーマについて、あまりページが割かれていないように思われるが、妥当であろうか。p.294-295の「現代科学とジェンダー」という節のなかで言及されているのだが、核開発とジェンダーの歴史については、別に節をたてて考察してみてもよいのではないかと思われる。私自身は、これまでの授業の講義録をまとめた『世界史との対話』全3巻(地歴社、2012年)で論じたように、ヒロシマ・ナガサキからチェルノブイリ・フクシマに至る、世界の被曝という事態は、大地と人間の「未来のいのち」が決定的に危機に晒されるようになったのであり、新たな「いのちの危機」の段階に世界史が突入したことを意味すると考えてきた。ジェンダーの問題をリプロダクティブ・ライツという視点から見るだけでなく、母なるものに育まれる「未来のいのち」という観点から見ることも、大切ではないだろうか。それによって、より複合的で豊かな「問いかけ」のある世界史が生まれるであろう。
あとは細かなことだが、p.227の下の史料のなかに囲み記事が割り込むアクシデントが起こっているので、訂正が必要である。
もう一つ、蛇足のような提案だが、「リプロダクティブ・ライツ」であれ、「ジェンダー主流化」であれ、ジェンダーに関する用語について、日常生活で使用する日本語感覚に即したこなれた訳語が望まれる。その意味で、議論が街角のおじさん、おばさんにも伝わるような言語感覚が大事にされるべきであろう。
おわりに
最後に、私から本書の執筆者の皆さんへの「問いかけ」をしたい。皆さんは、本書を通じて、ジェンダー史研究の成果を、「高校や大学の教育現場で十分に活用」(p.2)できるようにしてくださった。しかし、その「活用」とは、大学入試の世界史の問題で、「台湾におけるフェミニズムの先駆者で、投獄されながらも、のちに副総統となった女性は誰か」とか、「リベリアの内戦終結に向けた和平交渉を強く働きかけ、のちにノーベル平和賞を受賞した女性は誰か」といった類の出題に対応できるような授業をすること…ではないはずである。
本書が「活用」されるためには、高校教師が本書を読むだけではなく、高校世界史の教科のあり方そのものが、どのように変わっていかなければならないであろうか。これが私の問いかけである。
2014年6月に日本学術会議が提案した、歴史的思考力を育てるような歴史教育への転換という問題関心を、より具体的に提言するために、私は油井大三郎さんや桃木至朗さんたちとともに高校歴史教育研究会という勉強会を通じて、世界史と日本史の教科書の用語を現行の3800語程度から2000語程度に半減させ、教科書の右ページは史料読解や討論のためのページにすることや、大学入試も2000語のガイドラインの中から出題することによって現場の知識詰め込みを無用にすることなどを、報告書にまとめて世に問うた。報告書は世界史研究所のHPからダウンロードできるので、ご覧いただくとともに、そこに添付されているアンケート(高校世界史はどのように変わらねばならないかを聞くもの)にご意見をお寄せいただけると幸いである。
「性差はつくられる」という事実のように、「学力差はつくられる」(どうでもいい歴史用語を答えさせることで学力を測っていると権力者が考えている)という現実もあるのではあるまいか。
私は、高校の世界史教科書自体が、本書のように、歴史用語は極力抑えて左ページに記述され、右ページの史料・図版などを通じて相互の「問いかけ」ができるようなものに変わっていかなければならないと考えている。その意味でも、本書が示した歴史叙述が多くの人々に読まれるべきであろう。
本書の作成に関わったすべての方々に、心からの拍手を贈り、私の書評を閉じることにする。