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ユダヤ人女性グラツィア・ナスィとイベリア半島のユダヤ人追放
執筆:三成 美保(最終更新:2014.07.13/掲載:2014.06.08)
グラツィア・ナスィGracia Nasi
グラツィア・ナスィGracia Nasi(ドーニャ・グラシア・ナスィ:1510-69)は、キリスト教名をベアトリーチェ・ド・ルナという。1510年、ポルトガル王のマラーノ(キリスト教に改宗したユダヤ人に対する蔑称)の宮廷医の娘として生まれた。のち、同じマラーノのフランシスコ・メンデスと結婚した。メンデス家は、ヨーロッパの香辛料貿易の大部分を支配していた。その経済的財政的力は絶大で、フッガー家とも比べられたほどである(クロー2000:437頁)。
夫は早く亡くなり、ベアトリスは、若き未亡人となった。彼女は、ユダヤ教徒としての信仰を守っていたが、イベリア半島におけるユダヤ人迫害を受け、表面上は「コンベルソ(改宗者)」「新キリスト教徒」として生活していた。
1536年、ポルトガルでも異端審問を指令する教皇の手紙が送られ、ベアトリスは他の者たちとともに、比較的抑圧的ではなかったアントワープに逃れた。アントワープには、義弟(夫の弟)がいた。最終的にはトルコに渡るつもりでいたが、当時は非キリスト教国への渡航は許されておらず、トルコへの渡航希望はユダヤ教徒であると告白するのも同然であった。ユダヤ教徒であることが発覚すると、財産没収のうえ、火あぶりとなった。彼女は貿易業に励み、ヨーロッパやトルコにネットワークを築いて、同胞たちのポルトガル脱出を支援した。
しかし、義弟が亡くなると、神聖ローマ皇帝カール5世が、メンデス家はユダヤ教徒であるとして財産の差し押さえをはかった。1546年、ベアトリスはヴェネツィアに移住する。当時、ヴェネツィアは、レヴァント貿易を有利にするためにユダヤ人を優遇していたからである。だが、このヴェネツィアも、1550年に方針を変え、ユダヤ人追放政策に転じた。
このころ、ベアトリスは相続争いがきっかけで妹に密告され、投獄された。裁判を有利に進めるために、ベアトリスは、サロニカのラビに裁定を依頼した(田村1997:36頁、宮武2000岩波講座:205頁以下)。この過程で、一家にとって安全なフェッラーラに至った段階で、ナスィ家当主のベアトリスは、ユダヤ教徒であることを明らかにする。そして、名をユダヤ的な「ナスィ家のグラツィア(=ハンナ)」に改めた。1553年、彼女は一族とともにコンスタンティノープルに移り住み、イベリア半島のユダヤ人を救済し続けるとともに、貧民救済に尽くした。また、学者や出版事業、学問施設や祈りのための施設を支援した。
史料
サムエル・ウスケ『イスラエルの苦難への慰め』(1553年)から
「お前たち[イスラエルの民]が見たのと同じように、神の恩恵が人間の姿で現れたのを見た者があろうか。神がお前たちの救助者を通じて、かつて示され、また今も示しておられるように。誰が、蘇るのを見ただろうか、自分の命をかけて同胞を救ったミリアムの本物の忠誠が。みずからの民を治めたデボラの偉大な思慮が。迫害されている者たちを救ったエステルの限りない徳と高潔さが。苦難にあえぐ者たちを解放した、最も貞潔で気高い寡婦であるユディトの大いに讃えられた力が・・・
お前たちが体験した危険で切迫した苦難の中で、母親のような愛情とこの世のものとは思われない寛大さでお前たちを助けたのは、彼女(グラツィア・ナーシー夫人)ではなかったか・・・
彼女は、窮乏と悲惨の中にあった貧しい群衆を救い出し、かつては自分の敵であった者たちにさえ助力を惜しまなかった・・・
かくも賢明に、またその黄金の腕と力強い把握によって、彼女はこの民の多くの者を引き上げてくれたのだ。彼らが貧しさと罪によってヨーロッパに閉じ込められていた、限りのないもろもろの辛苦の深みから。彼女は彼らを安全な土地に運び、彼らを導くことを決してやめなかった。そして彼女は、彼らのいにしえの神への服従とその掟へと彼らを連れ戻したのだ・・・」(ソロモン『ユダヤ教』77-78ページ)
※サムエル・ウスケ(1500頃ー1555以後)
サムエル・ウスケは、ポルトガルの詩人・歴史家。彼については、『イスラエルの苦難への慰め』の著者である以上のことは、ほとんど知られていない。サムエルは、スペインのユダヤ人一家に生まれた。一家は、1492年にポルトガルに移住し、1497年に強制改宗させられた。この時以降、ポルトガルではヘブライ語の書物を持つことが禁じられたが、サムエルはラビの書物に親しんだらしい。1530年頃、異端審問が強まると、サムエルはイタリアに逃げた。ナポリでは、グラツィアと並んでユダヤ人保護に努めたとして知られるBenvenida Abravanelに歓待された。その後、サムエルは、イスタンブールを経てパレスチナに至り、ボヘミアを経由して、1550年頃、イタリアのフェラーラに戻ってきた。この地で『イスラエルの苦難への慰め』(1553年)を出版し、グラツィア・ナスィに本書を捧げた。
スペイン・ポルトガルからのユダヤ人追放(16世紀)
●イベリア半島のユダヤ人ースファルディーム
イスラーム支配下のイベリア半島では、ユダヤ人は「ズィンミー(被保護民)」としての保護をうけ、交易業などで活躍していた。しかし、スペインでは、14世紀にユダヤ人に対する抑圧が加速した。とくに、1391年に勃発したセヴィーリアでのユダヤ人への虐殺や集団暴行の結果、多くのユダヤ人が強制的に改宗させられた。密かにユダヤ教を守った者もいたが、発覚すると、スペインでは異端審問にかけられて火あぶりになった。スペインから多くのユダヤ人が国外脱出をはかるようになり、彼らイベリア半島出身のユダヤ人は、「スファルディーム」とよばれた。
●ユダヤ教徒追放令
レコンキスタ達成後の1492年3月31日、スペイン王フェルナンドとイザベルは、ユダヤ教徒追放令(強制改宗令)を出した。改宗令以降にキリスト教徒に改宗したものを、イベリア半島では「新キリスト教徒」cristianos nuevosあるいは「改宗者(コンベルソ)」とよんだ。また、「豚」という意味の侮蔑的表現として「マラーノ」という呼称も用いられた。
1497年にはポルトガルでも強制改宗令が出される。しかし、スペインとは異なり、ポルトガルは、ユダヤ教徒を厳格な異端審問にはかけず、キリスト教徒としての信仰告白さえすれば、国外追放にすることも、火あぶりにすることもなかった。このため、キリスト教に改宗する者が増えた。新キリスト教徒は、改宗後にキリスト教的な洗礼名を名乗り、もとの名を捨てた。交易商人や宣教師には、少なからぬ新キリスト教徒が含まれていたとされる。植民地支配の非人道性を批判したラス・カサスもまた新キリスト教徒の1人であった。コロンブスもまた「隠れユダヤ人」であった可能性がある(ソロモン2003:74頁)。
しかし、1540年からローマ教皇の要請をうけて、ポルトガルでも異端審問が実施されるようになる。多くの新キリスト教徒がポルトガルから脱出し、アントワープやヴェネツィア、イスタンブールに向かった。
●オスマン朝下でのスファルディームーユダヤ人大商人
1453年、コンスタンティノープルを征服したオスマン朝のスルタン、メフメト2世(在位1444-46,51-81年)は、新しい首都としてコンスタンティノープルを復興するためにも、帝国内の非ムスリム(非イスラム教徒)の効率的管理を考えた。それは、伝統的なイスラーム法を実施して、非ムスリムは「イスラームの家」下にあって、イスラーム国家に属し、契約によって国家の保護を受け、「被保護民(ズィンミー)」として扱われるというものであった。たしかに、ズィンミーは、法的にはムスリムより下位におかれたが、イスラーム法と世俗法を遵守する限りで、信仰の自由を認められたのである。このような状況で人材活用をはかろうとするオスマン帝国にとって、イベリア半島からのユダヤ人難民は厚遇されるべき対象であった(宮武2000岩波講座:199-200頁)。
オスマン朝では、ギルドメンバーである小売り商人と区別された「大商人」(トゥッジャール)が活躍した。彼らは、スルタンから「個人」として特許を得て、遠隔地貿易などを行った。ユダヤ教徒、ギリシア正教徒、アルメニア正教徒などの非イスラム教徒商人が多かったが、イスラム教徒の大商人もいた。とくに金融部門ではユダヤ教徒が多く、イベリア半島を追放されたユダヤ教徒を受け入れ厚遇した(林1997、79頁)。なかでもとくに有名なのが、グラツィアの甥であるヨセフ・ナスィ(別名ホアン・ミカス:1524-79)である。 ロスは「近代の歴史で公然とユダヤ教徒を名のる者で、かつて彼ほど権力を得た人物は他にはなかった」(ロス1966:184頁)と述べている。ヨセフは、伯母グラツィアと同様、文芸を保護し、独自の印刷所を持っていた。
当時のオスマン帝国は、スレイマン1世(在位1520-1566)およびその子のセリム2世(在位1566-1574)の時代で、ヨセフ・ナスィは、金融家として活躍し、政治的にも大きな影響力をもった(ロス1966:183頁、林1997:79頁)。ヨセフは、アルコール飲料の愛好者であったセリム2世と親しく、帝国における葡萄酒取引の専売権を獲得した。ヨセフは宮廷では高位に登り、政治的影響力も行使した。ヨセフは、セリムによって、葡萄栽培の中心地の一つであったナクソスとエーゲ海7諸島の大公となり、行政権を与えられた。また、ヨセフは、ポーランド王の選挙を左右した。ポーランド王ジグムントは、15万ドゥカトという多額の借金の代わりに、ポーランドに産する蜜蝋の輸出の独占権をヨハンに与えた。ヨセフは、フランス王にも15万ドゥカトを貸したほか、オランダの反乱を支援してスペインに復讐した。一方、ヨセフは、1570年のキプロスをめぐるヴェネツィアとオスマン朝との戦争の推進者の一人としても活躍した(クロー2000:438頁)。
【高校教科書事項】
オスマン帝国はキプロス征服には成功したが、これを脅威に感じたスペインとヴェネツィアなどが対オスマン同盟と連合艦隊を組織した。1571年、レパント沖の海戦でオスマン海軍は連合軍に敗れた。東地中海におけるオスマン帝国の制海権は維持されたが、スペインのフェリペ2世(在位1556-98)は西地中海の制海権を掌握し、カトリックの盟主として対抗宗教改革を推進していくことになる。スペイン無敵艦隊は、1588年、エリザベス1世が治めるイギリスに敗れた。
●参考文献
①ノーマン・ソロモン『ユダヤ教』岩波書店、2003年、73-78頁。
②田村愛理『世界史のなかのマイノリティ』(世界史リブレット53)山川出版社、1997年、33-36頁。
③シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』みすず書房、1966年、183-184頁。
④徳永恂『ヴェニスのゲットーにてー反ユダヤ主義思想史への旅』みすず書房、1997年、とくに第1章、28-112頁。
⑤林佳世子『オスマン帝国の時代』(世界史リブレット19)山川出版社、1997年。
⑥宮武史郎の一連の研究
宮武史郎「ヨセフ・ナスィ――オスマン朝における元マラーノの軌跡――」『オリエント』39-1、1996年
同「16世紀地中海世界におけるマラーノの足跡――ドナ・グラツィア・ナスィ――」『地中海学研究』20、1997年
同「オスマン朝へのユダヤ教徒移民」歴史学研究会編『地中海世界史5 社会的結合と民衆運動』青木書店、1999年
同「15・16世紀オスマン朝におけるユダヤ教徒宮廷侍医」『史學』(三田史学会)69-3・4、2000年
同「ユダヤ教徒ネットワークとオスマン朝」『岩波講座世界歴史14 イスラーム・環インド洋世界 16-18世紀』岩波書店、2000年
同「16世紀地中海世界におけるユダヤ教徒ネットワークとユダヤ教と医師」『西南アジア研究』63、2005年
同「オスマン帝国とユダヤ教徒」深沢克己編『ユーラシア諸宗教の関係史論 他者の受容、他者の排除』勉誠出版、2010年
⑧関哲行『スペインのユダヤ人』山川出版社、2003年、69-77頁
⑨藤内哲也「近世ヴェネツィアにおけるゲットーの拡大」『鹿大史学』59、2012年、http://ir.kagoshima-u.ac.jp/bitstream/10232/13040/1/AN00041730_v59_p43-54.pdf
⑩アンドレ・クロー『スレイマン大帝とその時代』法政大学出版局、2000年(新装版)、437-438頁。