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【アフリカとわたしー研究者への道】    エッセイ&イラスト       富永智津子

ここでは、2007年から『婦民新聞』に連載している「アフリカとわたし」を再録します。ひとりのアフリカ研究者の「ひとりごと」です。タイトルには、エッセイの内容に対応する年を付してあります。なお、末尾に執筆年のみ記してあるエッセイは、『婦民新聞』に未掲載のものです。

遅い旅立ち(1979年)               

 

  • img046わたしの机の引出しには、掌ほどの小さなノートが乱雑に投げ込まれている。冊数はざっと30。アフリカに足を運ぶたびに、ウェストポーチに押し込み、日記帳やメモ帳代わりに使っていたノートである。
  • 一番古いものは1979年にさかのぼる。表紙には「タンザニア」という文字。インド洋に面した東アフリカの国だ。そう、この年、わたしは初めてアフリカの大地を踏んだのだった。
  • 航路は、香港―コロンボーセイシェル経由。とっくに廃止になった英国航空の路線だ。降り立ったのは、首都ダル・エス・サラーム。ノートの片隅に飛行時間が計算されている。トータルで15時間45分。これは、今でもさほど変わらない。
  • ダル・エス・サラームの第一印象も記されている。街の風景は写真で見たまま。そこそこのビルが並び、一階は店舗、二階以上は住宅だったり、オフィスだったり…。アカシア風の並木もある。オンボロだが、自動車も走っている。戸惑っている対象は「人間」。どう接していいかわからない、すれ違う人の「視線が痛い」、「顔を上げて歩けない」とある。ついにサングラスをかけ、「帽子を目深に被って」外出することにしたとも…。
  • 日が経つにつれ、さまざまな人物が登場する…インド人もいれば、イギリス人もいる、希望にもえたタンザニア人の若者も登場すれば、あやしげな酔っ払いも…。
  • アフリカ大陸の最高峰キリマンジャロの麓まで12時間のバス旅行もしている。延々と続くサヴァンナ、人影はまったくなし。真っ赤な太陽が地平線に沈むと、あたりは漆黒の闇…。その闇の中を時速120キロで突っ走る…。
  • 観光地にもゆく。そこでの困惑は、子どもたち…。どの子も手に手に民芸品らしきものを持っている。「買ってもらうまではなれない、しつこい、しかし、むげに追い払うことはどうしてもできない」と記されている。日本に残してきた幼い二人の娘の姿が浮かんだのだろう。
  • これが、夫の急死により13年間の「専業主婦」生活に終止符を打ち、大学院生として研究者への道を歩み始めたわたしの遅い旅立ちだった。37歳になっていた。(『婦民新聞』2007年4月)

 

37歳大学院生の「悲鳴」(1979年)            

  • 旅のメモを記した小さなノート、それを「旅の手帖」と呼ぶことに002 (2)する。その第一冊目は1979年のタンザニアの首都ダル・エス・サラームから始まる。現在、首都は内陸部のドドマに移されているが、相変わらずダル・エス・サラームを「首都」と記している地図は多い。それほど、ドドマの影は薄く、国政以外の都市機能は相変わらずダル・エス・サラームに集中している。
  • しかし、当時、首都としてのダル・エス・サラームは面目まるつぶれだった。目抜き通りの商店の棚は軒並み空っぽ。中でも人々を苦しめていたのは、必需品である砂糖と石鹸、そしてガソリン不足。給油所には、いつも長蛇の列ができていた。
  • 最高級ホテルでさえお湯は出ない。原因は、前年に勃発した隣国ウガンダの独裁者イディ・アミンとの領土問題をめぐる戦争だった。結果は、なけなしの外貨を使い果し、輸入はストップ、物資の流通にも支障を来したのだ。
  • そんなタンザニアの苦境が、「旅の手帳」に綿々と綴られている。
  • 一方、わたしは何をしていたのか。「町中の小さな国立文書館でドイツ領時代の史料を調べる。しかしドイツ語の史料はひげ文字の手書きで、全く手に負えない」との一文。そこから聞えてきたのは、37歳の大学院生の「悲鳴」。13年というブランクを埋められるかどうか、「進学」という選択は正しかったのだろうか。そう、その頃、一番つらかったのは、「論文」が読めないことだった。字は読めるが、論旨が追えない。それをひた隠しにして、大学院のゼミに出ている苦痛。アフリカに調査にきたものの成果は期待できそうにない・・・。出るのはため息ばかり。
  • そんなある日、太鼓の音に誘われ、とある町はずれの掘っ立て小屋をのぞいた。目に飛び込んできたのは、アフリカン・ダンス。観客は、普段着のおばさんや子供だ。太鼓叩きは男性2人。叩いているのは、ボコボコのブリキ缶。腕さえよければ、楽器選ばず、といったところだ。踊り手は少女。踊りながら、歌っている。その音量にも度肝を抜かれた。そこには、わたしの悩みを束の間吹き飛ばしてくれるエネルギーがあふれていた。(『婦民新聞』2007年5月)

スワヒリ語との出会い (1979年)               

  • 002「旅の手帖」の最初の数ページには、スワヒリ語の会話が並んでいる。「ジナ ラコ ナニ?」(お名前は?)「ベイ ガニ?」(いくら?)「ワピ?」(どこ?)「ニサリミエ・・・」(・・・によろしく)、といった具合である。スワヒリ語との出会いは、たまたま新聞の隅っこに、「スワヒリ語3か月講座」という小さな広告を見つけたのがきっかけだった。教室には、若い受講生が30人ほど。最年長のわたしは、数字の1から10までのスワヒリ語を覚えるのに一週間かかった。我ながら、なさけなかった。ついてゆけないかも。
  • そんなある日、先生が教えてくれた。「キス」はナイフのことで、「ブス」がキス、「ウソ」が顔で「モト」が火、「クマ」は女性のあそこのこと、だから「クマモト」は禁句・・・。熊本県の人は困っている。えーっ、ホント?それから、じょじょにスワヒリ語の学習も軌道に乗り出した。
  • 初めて訪れたタンザニアの首都ダル・エス・サラームで、覚えたてのスワヒリ語を使ってみた時の興奮が、手帖に書かれている。「英語などとは比べようにないほどの効果だ」と。「一気に距離がちぢまる」とも。もちろん、ともに人間関係のことである。
  • 一方で、悩みもあった。片言のスワヒリ語では話す内容も限られる。当然、すぐに英語にシフトする。スワヒリ語を覚えたいわたしの頭の中は、ぐちゃぐちゃになる。
  • しかし、こうした新しい挑戦は、わたしに気力と活力を与えてくれた。アフリカ史という領域もそうだ。日本では、まだまだ未踏の領域・・・。その実感が、自信を失いかけていたわたしの背中を押してくれた。
  • 自分なりの方法とペースで、自分に見合った井戸を掘っていけばいいのだ・・・。
  • 初めてのアフリカ体験は、37歳の大学院生に、かけがえのない指針と、これまで味わったことのない「生きる」喜びとを与えてくれたようだった。
  • 結婚した時、子供が生まれた時、それはそれで嬉しかった。しかし、家事と育児だけの時間の流れの中で、燃焼しきれない自分をもてあましていたのも確かだった。
  • 手帖の最後には、「小さかったわたしの世界が、風船のようにふくらみ始めた」と書かれていた。(『婦民新聞』2007年6月)

 

 

キリマンジャロの麓 (1979年)              

  • ひんやりとした空気、うっそうとした森、点在するバナナの林、・・・。湧水の傍らでみずみずしい葉をひろげているのはタロイモのようだ。まるで軽井沢!一九七九年、キリマンジャロの麓の村である。宿泊するホテルの名は「キボ」。キリマンジャロ最高峰の名前にちなんでつけられている。キリマンジャロとはスワヒリ語で「輝く山」の意。それは、氷河をいただくこのキボ峰を指している。海抜5895メートルのアフリカ最高峰のこの山は、いつも中腹に雲を抱えていて、麓からその秀麗な頂きをながめることはなかなかできないといわれている。
  • 数日滞在したこの時も、キボ峰は姿を見せてはくれなかった。だから、なおのこと、登山客を惹きつけるのだろう。宿泊したホテルは、登山目的でドイツからやってきた客でいっぱいだった。ドイツ人観光客・・・タンザニアが元ドイツ領だったことと関係があるのだろうか。ドイツは、イギリスやフランスに遅れて、植民地争奪戦に参加した。そして、ようやく手に入れたこの植民地にコーヒー栽培を導入した。選んだ場所が、キリマンジャロの麓だった。「キリマンジャロ・コーヒー」
    ミクミ国立公園のカバ

    ミクミ国立公園のカバ

    の誕生である。労働力はアフリカ人が提供した。もちろん、コーヒーからの収益が現地の人々をうるおすことはなかった。第一次大戦に敗れてドイツ人が去り、勝者であるイギリス人がやってきた。独立は1961年。しかし、政治的な独立は、経済的な自立をともなわなかった。その証拠に、独立後18年を経た当時、コーヒー農民はあえいでいた。「コーヒーをつくっても、公社が代金を支払ってくれない、これでは、地元で売れるバナナを栽培した方がいい」というコーヒー農民の言葉が「旅の手帖」に記されている(ちなみに、21世紀に入った現在も状況は変わらない)。

  • 一方、わたしは、修士論文のテーマ探しであせっていた。タンザニアを研究対象に選んだのは、ドイツ領だったことと関係がある。大学でドイツ史をかじったからだ。ドイツ帝国主義の研究を、今度はアフリカで、というわけである。しかし、実際にタンザニアにやってきて、わたしの心は揺れはじめていた。(『婦民新聞』2007年7月)

 キャラバンルート (1979年)              

  •  タンザニアの地図を広げると、キリマンジャロからダル・エス・サラームへと続く幹線道路に沿って、パレ山脈とウサンバラ山脈が連なっている。植民地化前、キリマンジャロ、パレ、ウサンバラという三つの山地には、それぞれチャガ、パレ、サンバーという民族集団が首長国を形成し、低地を通るキャラバンルートを統括していた。
  • 山地には泉があり、雨量もそこそこ、しかもマラリア蚊がいない。人が住みつく条件を備えていたのだ。当然、ヨーロッパ人にとっても快適な場所である。したがって、植民地統治の拠点ともなった。こうした知識は、現地に来る前に頭に入れてきた。しかし、文献だけでは、どうしてもイメージが湧かない。アフリカの山脈ってどういう形をしているの?植生はどうなっているの?人々の暮らしは?・・・基本的なことが知りたい・・・。この思いはキリマンジャロへの5日間の旅でほぼ満たされた。
  • 「旅の手帖」(1979年)を繰ってみよう。「パレ山脈は、想像していたのとは全く違う。まるで地面にできた瘤だ。ぼっこり天空に突き出ている。ウサンバラは、山並みが続く夢の世界。人々は山の斜面を利用して集落をつくり、畑を耕している。野菜、キャベツ、トマト、トウモロコシ・・・、ヤギや牛もいる。遠方の山肌を一本の道が横断している、と思ったら、道ではなく灌漑用水路だった。伝統農業の技だという。
  • 町に入る。モモの花、カイユウの花、紫色に煙るジャカランダの花・・・コスモスもある。日が落ちると、蛙や虫の声の饗
    宴・・・」といった具合である。

    バオバブの大木
    バオバブの大木

    この旅が、修士論文のテーマをドイツ帝国主義から植民地化前のキャラバンルートへと切り替えるきっかけとなった。キャラバンルートと山岳部との地理的関係がわかって、読み進めてきた文献のおもしろさがわかってきたのだった。ダル・エス・サラームの文書館で見た難解なドイツ語のひげ文字史料も、この切り替えに一役買っていたのかもしれない。

  • こうして、一本のキャラバンルートが、キリマンジャロ、パレ、サンバーという三つの首長国にどのような影響を与えたか、という修士論文のテーマが固まった。(『婦民新聞』2007年8月)

 女性研究者という「稀少種」(1979年)           

  • 中学から大学まで女子のみの「楽園」で過ごしたわたしは、男女がともに暮らす社会についての知識も知恵もないまま結婚した。結婚して初めて、女性が「家内」で男性が「主人」という構図に違和感を持った。両親をみていれば、気がつくはずの構図だったが、経験してみなければわからない、とはこのことなのだろう。いや、わたしがぼんくらだったのだろう。そうした中での「主人」の急死だった。そして、大学院という窓口を通してではあったが、初めてひとりの「人間」として「社会」と向き合うことになったのである。
  • ところが、「社会」は女性を男性と同等な「人間」として扱ってはくれないことにすぐ気付くことになる。「かわいくない」「気の強い」女性は、何かと損をする「社会」。おまけに、1979年当時、私はいろいろな意味で特異な存在だった。まず、「同級生」とは一回り以上も年上であること、加えて寡婦で子持ちという経歴。居心地の良いはずはない。
  • そんな中で、もうひとつの驚きがあった。研究者の世界が圧倒的に男性による、男性のための研究の場だったことである。女性研究者は、いわば「稀少種」だった。アフリカ研究領域では、それがとりわけ顕著だった。研究会に女性はわたしひとり、という場面もめずらしくはなかった。
  • 「稀少種」は、うとんじられるか、ちやほやされるか、ふたつにひとつ。どちらにしても、 真っ当な研究者の卵として扱ってはもらえない。ましてや13年も専業主婦だったとあっては・・・。004
  • 修士論文を仕上げ、博士課程に進学するや、わたしは早々と日本脱出を決意した。留学先はロンドン大学。ところが、ここでまた難関が立ちはだかる。入学するには、英語のテストがあるのだ。しかも、現地到着後である。これには大いに当惑した。娘2人を休学させてロンドンまで行ったものの、パスしなかったらどうしよう。不安は募り、胃の調子がおかしくなった。
  • 今思えば、こうしたストレスを乗り切れたのも、「専業主婦」だった忍耐の13年があったからだった。それほど、自分が自分であることに飢えていたともいえる。(『婦民新聞』2007年9月)

 ロンドンへ(1981年)                  

  • 中1と高1の娘を連れてロンドンの空港に降り立ったのは、1981年8月。飛行ルートはモスクワ経由。ソヴィエト航空での旅立ちだった。モスクワまで10時間、そこからロンドンまで6時間。初めてのロンドン、知人・友人はひとりもいない。心細さを通り越して緊張感だけが高まる。
  • 010まずは入国審査。今でもそうだが、日本はイギリスとはヴィザ(滞在許可)の交換をしていない。空港でヴィザを申請するのだ。大学院関連の書類やら預金の残高証明やらを提示。そこまではよかったのだが、「娘の教育はどうするのか」との質問に心臓が飛び出しそうになった。一番の気がかりは、娘たちの教育だったからだ。
  • 不安は的中、「税金を支払っていないのだから、公立の学校はだめ、私立に入れろ」というのだ。公立の学校に入れない場合、帰るしかない。私の学費だけでも百万円は超える。娘たちの学費など払えるわけはない。ここで、念のため東京のイギリス領事館に問い合わせておいたことが幸いした。留学生であっても子供を公立の学校に入れることができる、との確認をしておいたのだ。それを証明する書類はなかった。しかし、係官は私の口頭での説明を信用し、1年の滞在許可をくれた。
  • 安堵と同時にどっと疲れが出て、その夜は3人でホテルに身を寄せ合って寝た。翌日、娘2人をロンドン郊外のサマー・スクールに送り出し、私は、イギリス人の家庭にホームステイをして英語学校に通い始めた。ロンドン大学大学院のテスト対策である。
  • しかし、テスト対策ばかりに時間を費やしているわけにはゆかなかった。娘たちの学校と借家探し、という大仕事があった。とりわけ学校探しには苦労した。13歳以上の子弟の公立学校への受け入れは、英語ができない場合、難しい。「旅の手帖」には、右往左往している「たよりない母親」像が記録されている。あっちの役所、こっちのオフィスと渡り歩き、結局、15歳の姉は1学年下のクラスに入れてもらうことで一件落着した。10月には、大学院の英語のテストにも何とかパスし、足かけ3年におよぶロンドンでの新生活がスタートした。(『婦民新聞』2007年10月)

 

 

 ロンドンのアフリカ人 (1981年)            

  • ロンドンには旧植民地からの移民が多いとは聞いていた。しかし、現実は想像以上だった。とりわけ、インド・パキスタン系とアフリカ系の移民が目立った。インド亜大陸とアフリカ大陸に多くの植民地を所有していたかつての「大英帝国」を髣髴とさせる存在だった。
  • ロンドンに暮らし始めて数か月、気がつくと私のまわりにも、娘たちのまわりにも、こうした移民のネットワークができていた。その中には、リッチな移民もいれば、ぎりぎりの生活をしている移民もいた。私が付き合うようになった前者の筆頭はナイジェリア人のファミリー、後者の中にはエチオピア難民の留学生たちがいた。両者は、まさに当時(1982年)の出身国の政治経済状況をそれぞれ反映していた。ナイジェリアはアフリカ最大の産油国。そこでは、とてつもない金持ち層が
    エチオピアの踊り子

    エチオピアの踊り子

    生まれ、より豊かな生活を求めて海外に移住していた。一方、エチオピアは世界最貧国のひとつ。そのエチオピアで1970年代に軍事クーデタが勃発、多くの政治難民を排出していたのだ。

  • 住まいや暮らしぶりを見ても、両者の格差は歴然としていた。玄関前のロータリーにロールスロイスやジャガーが並ぶこのナイジェリア人の邸宅は、さしずめ小さなお城。すべての部屋が最高級の調度品で飾られ、テレビ室には巨大スクリーン、浴室は大理石・・・といった具合である。あるじは清涼飲料水の販売で大儲けをし、その勢いに乗って運輸会社を立ち上げたのだという。子供たちは父親の所有する貨物用飛行機で母国とロンドンを往来していた。
  • 一方、エチオピア人留学生のフラットは狭い上に、半地下にあって薄暗く、しかも何家族かが雑居していた。額に十字架の刺青をしている女性からエチオピア料理のもてなしを受け、初めてエチオピア文化の香を嗅いだのはこのフラットだった。両者の比較が「旅の手帖」に記されている。「あり余るお金でスポイルされた子供たちに手を焼くナイジェリア人ファミリーと、エチオピアへ帰る日に備えて助け合いながら必死に勉学に励む難民家族・・・活力の差は歴然だ」と。彼らとの交流は、細々とだが、今も続いている。(『婦民新聞』2007年11月)

 

 ロンドンの「白人」 (1982年)              

  • 1982年、わたしと娘が住み着いたのは、中流階級が住むロンドン北部の緑豊かな地区だった。日本人とユダヤ人が多いということで、J・Jタウンとも呼ばれていた。
  • そういう土地柄もあったのだろう。わたしたちの周りには、多様な「白人」のネットワークが形成された。例えば、イギリス生まれだがカナダ国籍の主婦、その母親はドイツ生まれイスラエル育ちのユダヤ人、彼女に紹介された女性はナチス時代に「チャイルド・トランスポート」作戦によって救出され、アイルランド経由イギリスにやってきたドイツ系ユダヤ人、同じユダヤ人でも南アフリカから移住してきたテニス仲間の男性もおり、そのパートナーはスペイン人女性、といった具合である。
  • 「旅の手帖」には、「近くのテラスハウス(二階建ての長屋)には6~7カ国の家族が住んでおり、まるで国連宿舎みたいだ」とある。ロンドン滞在歴数年の日本人は、「イギリス人」の友だちなんてひとりもいない、とため息を漏らしていた。おそらく「イギリス人」コミュニティとその他の「白人」との間には超えることができない一線があるのかもしれない。われわれのような「外国人」と付き合ってくれるのは、「イギリス」社会の周縁にいる「白人」のようだった。しかも、この周縁化された「白人」ネットワークとアフリカ系やインド系の「非白人」ネットワークとの接点も全くといってよいほどなかった。
  • 表向きは多民族・多文化社会を謳っているイギリスだが、実際には、目には見えないカーテンが幾重にも張りめぐらされていたのだ。そんな中、ジャマイカ出身の黒人と結婚していた大学院の友人(「イギリス人」)は、身を持ってカーテンを取っ払った稀有な存在だった。娘もひとりいた。しばらくして、この娘はナイジェリア人の前夫との間の娘だということもわかった。曰く「再婚相手も黒人なので、娘の本当の父親みたいに見えるでしょ?」落伍者の多い中、彼女はがんばって博士課程を修了、国立文書館に職を得た。
  • 先日、夫を亡くしたとの連絡を受けた。とても仲の良い夫婦だった。彼女は今、ぽっかり空いた心の穴を埋め兼ねている。(『婦民新聞』2007年12月)

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 「マイペース」なロンドン (1982年)                     

  • 「えっ、ここはどこ?」「確かこの辺りのような気がする!」初めて、ロンドン名物の赤い二階建てバスに乗った1982年のことである。降りようとして、停留所に名前がないことに気づいてびっくり。停留所のアナウンスをしなくてよい車掌は、いたって暇。時々、座席に座りこんで本を読んでいる。
  • 乗客のマナーもマイペース。喫煙席は二階の後部と決まっているのだが、そんなことはお構いなしにどこででも吸う。灰は床に散らかし放題。匂いのきつい葉巻を吸う不届き者もいる。
  • バスもそうだが、地下鉄もマイペース。15分や20分の遅れは想定内のことらしく、乗客は決して騒ぎ立てない。衛生や栄養面でのマイペースぶりにもしばしば驚かされた。洗剤で食器を洗ったあと水ですすがない。じゃがいもとベーコンは太らないと信じている。床012に落としたハムでも平気で拾って赤ん坊に与える。土足で出入りしている床だ。風呂はほぼ週一回。湿度が低く、汗をかかない気候だからだろう。
  • 一方、マイペースで困ることは契約する。そして、契約したことはきちんと守る。ホームステイをしていた時のこと、突然一家がスコットランドに旅行に出てしまったことがある。夕食付の契約なので、どうするのかと思ったら、近所に住んでいた奥さんの両親が毎日夕食に招いてくれた。家を借りた際には、「庭と生垣の手入れは家主の役割」と契約にあってびっくりしたが、本当に月に一度(夏は二度)やってきては芝刈りをしてくれた。窓については、定期的に掃除人がやってきて清掃してくれることになり、その支払いはこちら持ち、という具合だ。
  • 個々人の家や庭の手入れに熱心な割には、一歩町中にでるとゴミだらけ。ゴミを捨てると罰金6ポンド(2700円ほど)という法律があるにはあるが、取り締まっている現場は見たことはない。
  • それから20年。アフリカから足をのばしてロンドンを訪れ二階建てのバスに乗った。喫煙者に加えて、携帯電話が登場していた。携帯電話をかけたり、受けたりで、乗客はいそがしくしていた!やはり、ロンドンのマイペースぶりはかわっていないようだった。(2008年1月記) 

ロンドンの娘たち(1982年)                

  • 「旅の手帖」を読んでいると、25年間思い出すこともなかった記憶が蘇ってくる。公立の学校に編入したての頃の娘2人のことである。母親の都合でロンドンに連れて来られた娘たち。言葉は通じず、友達もいない。楽しいはずはない。
  • そんな彼女たちに追い打ちをかけたのは、学校に併設されていた海外子女のための特別英語教室。まず初日、上の娘(高1)が担当の先生(ミス・ジョーンズ、60歳くらい)から「3年間も英語を勉強していたのに、どうしてこんなに出来ないのか」とさんざ嫌味をいわれ、妹(中1)は妹で、アルファベットもおぼつかないのに、「なんでわからないのか」といって怒られたという。
  • 状況は、日を追うごとに悪化した。「今日、先生は声がかれるまで怒った」「指示された宿題と違うことをやってきたといって、先生にノートを破られた」「ただで面倒をみてやっているのだから、もっと宿題をやってこいと先生に言われた」「相変わらず先生は怒り狂っている」・・・こんな調子だ。
  • ついに上の娘は「帰国する時には、先生の顔をひっぱたいてやる」とまで言い出す始末。下の娘にとってつらかったのは、「早読」の宿題だった。初めて見る単語が並ぶ半ページほどの文章を、45秒以内に読めるようにしなくてはならないのだ。1時間や2時間がんばっても読めるようにすらならない。そのうち口はまわらなくなるし、声は枯れるしで、泣き出すこともしばしば。こんなだから、姉妹の間にも険悪ムードが漂い始めた。
  • さすがのわたしも校長に文句をいおうか、それともカシミアの襟巻で先生を懐柔しようか、などと悩んだことを思い出す。そうこうしているうち、2人の口から少しずつ英語がでてくるようになった。電話の応対もなんとかこなせるようになった。友達もできた。
  • すっかり忘れていたが、ある日のこと、娘がわたしに言ったという一文が「旅の手帖」に記されている。「何だかんだ言っても、これだけ英語が進歩したのはミス・ジョーンズのおかげかもよ!」
  • ロンドン滞在半年を過ぎるころ、少なくとも日常会話の聞き取りは、2人に完全に追い越された。(『婦民新聞』2008年1月)

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ロンドン下町言葉(1982年)

  • イギリスは労働者階級とホワイトカラー層という二大階級社会だ、とはよく言われる。何で色別できるかというと、まずは職業である。それが、英語の発音とセットになっている。
  • たとえば、労働者階級の人々の多くは、AとIの発音が逆になる。Aが「アイ」で、Iが「エイ」なのだ。だから、タイムズという新聞は「テイムズ」となり、ロンドンを流れるテイムズ川は「タイムズ」となる。
  • 労働者階級とは、例えば郵便配達や牛乳配達の人たち。初めての集金の時、「ドゥー ユー ウォント パイ?」と言われて「ノー サンキュー」と言ってしまったことを思い出す。この「パイ」は、お菓子のパイではなく、支払うという意味の「ペイ」だったのだ。相手もびっくりしたことだろう。
  • しばしば食事やお茶に招いてくれた近所の家の主は、「僕は2か国語が話せるんだよ。良い英語と悪い英語」と言って娘たちを笑わせるおもしろいおじさんだった。おじさんは、こういう下町言葉を「コックニー」と言い、昔、ロンドン東部の人々がロンドン警察の手先として使われていてできた隠語をいくつか教えてくれた。
  • たとえば、目のことは「ミンス パイス」、口のことは「ノース アンド サウス」、妻のことは「トラブル アンド ストライフ」、足のことは「プレイト オブ ミート」。最後の音が元の単語の語尾と韻を踏んでいる。おじさんに、「オープン ユア ミンス パイス」(「目を開けなさい」)と言われて、娘たちは目をパチクリ。そこにおばさんがでてきて、もうひとつ教えてくれた。
  • コックニーは、Tの音が飲み込まれて聞こえない。たとえば、「ベター」(「より良い」)は「ベアー」となり、「バター」は「バアー」となる。そういっておばさんは「ベアー バアー」(「良いバター」)を何回も繰り返した。つまり、どの階級の人々と付き合うかによって英語の発音が決まるのだ。
  • こういう事情がわかった時にはもう手遅れ。労働者階級や移民の子弟の多い学校に通わせたことで、わたしのあこがれの「クイーンズ イングリッシュ」の修得を娘たちに期待することは、絶望的になった。(2008年1月記)

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 彷徨える研究テーマ (1982年)            

  • 現在、わたしはタンザニアの島嶼部ザンジバルの社会や文化の歴史研究をしている。初めてタンザニアを訪れた1979年、文書館で見たひげ文字のドイツ語史料におそれをなし、ドイツ領時代とは決別し、英語文献で書ける植民地化前の長距離交易で修士論文を書いた。
  • そこまでは覚えているのだが、その後、どのような経緯でザンジバルに研究のテーマを絞っていったのかは、すっかり忘れていた。少なくとも、修士論文以降、ドイツ領時代とは決別したと思っていた。しかし、ロンドン滞在中の「旅の手帳」を読み返すと、どっこいそうではなかったことが判明。となると、ロンドンの大学院でわたしはいったい何をしていたのか。
  • 「旅の手帖」から明らかになったのは、何と、また振り出しに戻って、ドイツ領時代に逆戻りしていたということだった。というより、もっと広く文献や史料をあさり、テーマ探しに明け暮れていた、と言った方がいいだろう。
  • 指導教授は、日本でも著名なアフリカ史の草分けであるローランド・オリヴァー氏。大先生なのだが、タンザニアのことはあまり詳しくない。宣教師の活動に関心があるらしく、しきりにドイツ語の他にフランス語も読めるようにしておけ、という。タンザニアの内陸部にはフランス人の宣教師も入っているからだ。研究とはそういうものなのか、とさっそくフランス語の市民講座に参加。ところが、フランス語は人気がなく、生徒数も五人を割って、2~3か月で閉鎖されてしまった。わたしの記憶はそこまで。
  • しかし、「旅の手帳」を繰って見ると、帰国寸前までプライベートなレッスンを受けているではないか!今、フランス語の知識は、イギリスに行く前と同じレヴェルに戻っている。ということは、無に等しい。何と無駄な時間とお金を使っていたことか。
  • そんなこんなのロスはあったが、とも角、大学院のゼミに出ながら、あっちの図書館こっちの文書館と渡り歩いてはコピーをしている様子が詳しく「旅の手帖」に記されている。
  • そうした作業にうんざりし、気分転換にザンジバル行きを決行したのが1882年夏。どうやら、それが、彷徨えるわたしを救ってくれたようだった。(『婦民新聞』2008年4月)

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いざ、ザンジバルへ (1982年)              

  • ロンドン滞在中に一度はザンジバル(タンザニア)へ、ということは留学前から考えていた。問題は、費用のことと、娘2人を連れてゆくかどうかだった。一諸に行きたいが、1人と3人では費用が大違い。わたしがタンザニアに行っている間、娘2人を預かってあげるという申し出がなんと3家族からあったことも、わたしの決断を鈍らせていた。
  • そもそも当時(1982年)のロンドンの物価は、円安のせいでわれわれにはきつかった。たとえば、キューリ1本70円、レタス1玉270円、卵1個30円、トイレットペーパー4個270円・・・といった具合で、切りつめても1か月の食費は10万。家賃月18万に加えて、冬ともなると暖房費が月2万。交通費も高く、大学までの20分ほどの地下鉄往復運賃800円(通勤時間をすぎると割安になるが)、コピー代も1枚20円、・・・ということで経常費だけでも月30万以上はかかる。
  • ザンジバル・ストーンタウンの街角

    ザンジバル・ストーンタウンの街角

    タンザニアに行く費用の見積もりは、なんと「往復旅費3人で48万、ホテル代が3週間で約20万、その他、食費と交通費などで〆て100万」。こんな贅沢はできない。なんとか安くあげようと、タンザニアの知人宅にホームステイできないかとの問い合わせもした。だが、なかなか思うようにはいかない。

  • あきらめかけていた時、タンザニア駐在の日本人宅に無料で泊めてもらえるという話が舞い込み、一挙に3人でのタンザニア行きが決定した。あとは、飛行機の手配、黄熱病や肝炎やらの予防注射、タンザニアの知人に頼まれた買い物(哺乳瓶や紙おむつから靴まで!)、といった準備をしながら、出発の日を待つだけとなった。
  • その過程でびっくりしたのは、日本では高額の出費となる予防注射がすべて無料だということ。理由を聞くと、病気を持ちこまれるより安上がりだから、というのだ。医療費無料のホーム・ドクター制を採るイギリスならでは話だ。当時、サッチャー政権の下で民営化と助成金カットが進んでいたものの、まだ「ゆりかごから墓場まで」の完全福祉をめざした時代の制度は生きており、われわれはその恩恵に与ったということになる。(『婦民新聞』2008年5月)

(続)いざ、ザンジバルへ(1982年)            

  • 出発は1982年7月9日。ヒースロー空港から経由地カイロまで4時間16分。そこから約5時間後、氷河を頂いたキリマンジャロの眺望を楽しみながら、まずはタンザニアの国際空港に到着した。
  • 3年ぶりのタンザニアである。乗客の9割は、ヨーロッパ人の観光客だった。着陸態勢に入った時の機内の様子がわたしの「旅の手帖」に記されている。「飛行場が眼下に見えてくるや、それまでざわついていた機内が静まりかえり、緊張感が漂う。滑走路に着陸するや、大きな拍手がまきおこった。」無事に“地の果て”に到着したという安堵感からだったのだろうか。
  • 飛行機のタラップを降り、パスポートチェックを終え、税関へ。外貨の申告を済ませ、手荷物検査を受ける。スーツケースの中身をひっくり返される。知人にたのまれた赤ちゃん用品がでてきて娘が詰問されている。こっちで赤ん坊を産むのかと聞かれたようだ。土産にはうるさい。
  • こうした一連の流れの中で現在は廃止されていることがある。外貨の申告である。持ち込まれた外貨が闇で換金されないための制度である。たとえば、2千ドルの申告をし、1500ドル使ったとすると、その換金証明が必要なのだ。この証明は、銀行で換金の都度、申告用紙の裏面に記載してもらうことになっていた。こうすれば、外国人が持ち込む外貨は、政府のふところに確実に入るというわけである。別に悪いことをしていたわけではないが、この制度がなくなった時には正直ほっとした。もし、帳尻があわなかったらどうしよう!という一抹の不安がいつもつきまとっていたからだ。
  • さて、タンザニアの空港からザンジバルまでは、インド洋のエメラルド色の海原を眼下に20分。絨毯のように波間に浮かぶ島が見えてきたかと思う間もなく、飛行機はココヤシの林に囲まれた小さな飛行場に滑り込んだ。
  • ここでもパスポートチェック!そう、ザンジバルは大陸部と連合している「独立国」なのだ。タクシーで、穴ぼこだらけの道をタウンに向かう。15分ほどで、この島に2つしかない公営のホテルのひとつにチェックイン。翌日からの散策を楽しみに眠りについた。
  • (『婦民新聞』2008年7月)
    005

 ストーンタウンとの出会い(1982年)            

  • けたたましいサイレンの音で目が覚めた。時計をみると7時半。役所の始業時間なのだという。あとで知ったのだが、サイレンが鳴っている間は、車も人もすべて停止。鳴り終わると、また、すべてが動き出すのだという。
  • 朝食を済ませて、町に出かける。人々の交通手段はもっぱら自転車。そのわけは、ストーンタウンと呼ばれている町中に入って納得した。道幅が狭く、自転車でもすれ違うのは難しい。ましてや、自動車は論外なのだ。その狭い路地img066の両側には、3~4階建ての石造りのビルが隙間なく並んでいる。ビルの壁面は、風雨にさらされて黒ずみ、ところどころにヒビもはいっている。細かい装飾のほどこされた出窓は豪商の館だったのだろうか。
  • 海辺の一等地にそびえたつのは、この島の繁栄を物語るかつての王宮である。そこから目と鼻の先にあるのは、巨大なキリスト教のカテドラル。イギリスが奴隷市場の廃止を記念して、その跡地に建てたものだ。人口の九割以上がイスラーム教徒のこのストーンタウンに、このようなカテドラルは必要ではない。目的は、帝国の威厳を示すためだったのだろう。こうした建物すべてに歴史が刻まれていた。
  • 一方、すれ違う人々の容貌も、大陸部の人々とは異なっていた。膚の色は小麦色で、眼鼻立ちはアラブ的。挨拶にはアラビア語が混じり、スワヒリ語も大陸部のものより優雅に聞こえる。なるほど、これぞスワヒリ人!と感動しきりのわたし。
  • ふと、気になって、娘たちを見ると、冴えない表情をしている。ひとりはロンドンに、もうひとりは日本に早く帰りたいという。やれやれ、一体何のために無理してここまで娘たちを連れてきたのか。初めは心中おだやかではなかったが、やがて、まあ、いいか・・・いずれこの経験が何かの役に立つだろう、と自分をなぐさめる。
  • こうして、わたしは、イスラーム・奴隷・王宮・オマーン・イギリス・アラブといった要素が複雑に絡み合ったザンジバルの歴史に魅かれるようになったのである。日本の研究者が誰も入ったことのない島だということも、佐渡島より少し大きい程度という島の規模も気に入った(『婦民新聞』2008年8月)

 

長く暗いトンネル(1982年)  

  • わたしたち親娘が訪れた1982年のザンジバルは、歴史的に見れば、20年近くの長く暗いトンネルをようやく脱しようとしていた時期だった。今でこそ、7~8月の観光シーズンには大勢のヨーロッパ人が訪れるザンジバルだが、当時は、観光客は皆無。レストランも皆無。数少ないタクシーはほぼすべてが60年代もの。床に穴があいていたり、スターターがこわれていたり・・。
  • 島から出る時には、予約していた飛行機がキャンセルになり、空港の固いイスで、蚊取り線香に囲まれてまんじりともせずに一夜を明かす羽目に遭遇。翌日は、迎えの飛行機を待って、何時間も西の空を眺めて過ごした。フェリーやチャーター便が頻繁に行き交う今となっては、懐かしい思い出のひとコマである。
  • 歴史の本をひもとくと、ザンジバル人の長くてつらい時期は、1964年の革命に始まっている。イギリス支配からの独立はその前年の1963年。未来への希望にあふれてスタートを切った他のアフリカ諸国とは異なり、ザンジバルでは独立当初から暗雲が立ち込めていた。
  • 独立後の政治を担う政党選挙でアラブ系が勝利していたからである。予感は的中、
    結婚式でのムスリムの音楽隊

    結婚式でのムスリムの音楽隊

    アフリカ系住民による革命の勃発である。一夜にして何千人ものアラブ系住民が犠牲になった。人口50万にも満たない小さな島で起こったこの革命は、冷戦構造のただ中にあった国際社会を震かんさせた。革命によって樹立された政権をいち早く認知し支援に乗り出したのが中国、キューバ、ロシアといった社会主義諸国だったからである。

  • 「第二のキューバ」化を恐れた西欧諸国の介入もあり、急きょ大陸部との連合が成立したがザンジバルの独立性は維持された。土地の再分配、国家による生産物の一元管理、といった社会主義的改革が実施されはしたが、その内実は一党独裁。一般住民はひたすら忍従の中の貧困を強いられた。1972年の大統領暗殺に続く政治犯の釈放や経済活動の多角化などにより状況が少しずつ改善されつつあったというのが1982年だった。
  • 経済の自由化によって住民が生気をとりもどすのは、その2年後のことになる。(『婦民新聞』2008年9月)

 

  貧富の格差(1982年)

  • 1982年夏、ザンジバルからロンドンに戻ったわたしは、改めてその貧富の格差に愕然とした。ザンジバルに住む人々が貧しくて「かわいそう」だからではない。というより、かわいそうかどうかは、他人が決めることではない。むしろ、人びとはびっくりするほど明るく、くったくがなかった。その背景にあるのは、「貧しい」からこそ維持されている豊かな人間関係。助けあわねば生きていけないからだろう。
  • アフリカ社会は「孤独」とは無縁の社会なのだ。だから「閉じこもり」という社会現象もない。自殺する人もまれだ。これらを生み出しているのは、支え合いやふれあいやぬくもりの欠如。皮肉なことに、その原因のひとつが「豊かさ」なのだ。
  • その上、「豊かな」社会独特のストレスもある。そういう社会で押しつぶされそうになっている人にとって、「豊かさ」は何の意味もない。つまり、貧富の格差は、人の「幸せ度」を測る尺度ではないということだ。では、なぜわたしはザンジバルとロンドンの貧富の格差に愕然としたのか。その理由は、それが命の軽重と関係していることに気付いたからだった。
  • たまたま生を享けた場所によって、こんなにも命の重さに格差があってよいのか。ぜんそくとアレルギー体質を持って生まれ、薬の助けでどうにか生き延びているロンドンの友人の息子。一方、ザンジバルでは、元気に飛び回っていた子どもが、狂犬病やマラリアであっけなく命を落としている。
  • ロンドンの友人の息子はザンジバルでは決して生きながらえることはできないし、ザンジバルの子らはロン
    ザンジバルの子供たち

    ザンジバルの子供たち

    ドンで生まれていたなら百%命を落とすことはない。

  • 1979年に大学院に入学した時、わたしは初めて「南北問題」という言葉を知った。以来、それを南北間の経済格差という意味で理解していた。しかし、その理解は観念的だったし、それを実態として捉えるにはわたしの想像力は貧弱だった。ザンジバルとロンドンを往復することによって、ようやく乖離していた観念と実態が、「貧しさ」とは命の問題なのだという一点で結びついたのだった。それは、今もわたしのアフリカ研究の原点となっている。(『婦民新聞』2008年10月)

 

母からの贈物(1983年)

  • さて、1983年の2月、足かけ3年にわたったロンドン留学生活に終止符を打った。娘たちの日本の学校の新学期に合わせたのである。高3に戻るはずの長女はカリキュラム変更に伴いもう一度高1からやり直しとなり、次女は年齢相応に公立の中学3年に進級することとなった。
  • 成田空港には母が迎えに来てくれていた。見知らぬ異国での生活を日本で支えてくれた母は、相変わらずの様子だった。元気というほどでもなく、さりとて辛いというほどでもない様子。リューマチとの長い付き合い方を会得した者のみが見せる穏やかな身のこなし。
  • その母の身体に異変が起きていることがわかったのは、それからわずか1か月後のことだった。ガンだった。告知は私がした。ガン細胞は、すでに直腸から肺へ、そして肺から肝臓に転移しており、隠しておくわけにはいかなかったのだ。
  • 一病息災というが、母の場合、リューマチを抱えていたことが、身体の異変に気づくのを遅らせてしまったとしかいいようがない。それからの1年半は、延命治療を拒否した母の看病の傍ら、初めて依頼されたアフリカ史の論文に取り組んだ。私にとって、この依頼は本当にありがたかった。
  • 痛みに耐える母と起居を共にし、昼夜の区別もなくなった介護の負担は、アフリカ史の世界に浸ることで中和された。いや、病室は、論文の執筆に没頭できる環境を提供してくれたと言ったほうがよい。
  • その間、不平不満を封じられた娘たちは、それぞれ自分のなすべきことを黙々とこなしてくれた。ロンドンでは、週末ごとにテニスや水泳、あるいは買い物にと、暇をもてあます娘たちに付き合っていたのだ。
  • 母の介護は、そうした役割からも、私を解放してくれた。この期間に執筆した2本の論文は、1988年、宮城学院女子大学の教員公募に際して審査の対象となり、採用への布石となった。
  • 今思えば、この2本の論文は、命と引き換えに私に遺してくれた母からの贈り物だったのかもしれない。(『婦民新聞』2009年1月)

 

ホロホロ鳥

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