【コラム】古代ギリシアの同性愛(栗原麻子)

2015.03.03.更新 2014.11.23掲載:栗原麻子(初出:服藤・三成編『権力と身体』2011年、79-82頁)

男性同士の恋愛は、古代ギリシア人にとって規範からの逸脱ではなかった。規範から逸脱するとすれば、それは恋愛の対象と求愛のプロセスを誤ることによって、その愛が、市民男性の社会的名誉にダメージをあたえることにおいてであった。このコラムでは、古典期アテナイを舞台に同性愛と市民としての男らしさの規範の関係を描いていきたい。

【同性愛の起源】

イタリアのギリシア史研究者エヴァ・カンタッレラ[Cantallera2002]は、ギリシアにおける同性愛の期限を太古の年齢階梯制に見出している。クレタ島には、求愛者が少年を強奪し、2ヶ月のあいだ狩りを教え、帰還後、成人の証としての斧と盃を贈る習慣があった。一方、スパルタでも、半隷属のヘイロタイを支配する男性同輩市民の団結を高める目的から、軍隊における同性愛的関係が促進された。しかし、たとえ通過儀礼としての同性愛の片鱗をクレタやスパルタに見出すことができるとしても、それをギリシア全土に拡大することは困難である。

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饗宴を描いた壁画(前5世紀)

アテナイの場合、少年から成人への移行期を迎えた若者が共同生活を送る、若者組の習慣を初年兵教育に見出すことはできる。だが、国家から任命された教育係と若者たちのあいだに、同性愛的な関係が意図されていた気配はない。一方、同年齢の若者のあいだの戦友としての絆は、社交生活の基盤となり政治活動を支えるなど、一生を通じて影響することとなった。しかし、同年齢の友人同士の友愛は、同性愛の関係とは区別されなくてはならない。同性愛の関係は、愛するものと愛されるものとのあいだの上下関係を前提としていたためである。

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口づけをかわす少年と男性(ルーヴル美術館)

アテナイの陶器には、「・・・は美しい」という少年にたいする名指しの讃辞と、愛する男にたいする求愛行動がしばしば描かれている。求愛者は鶏やウサギといった小動物を少年に差し出し、少年がそれを受け取れば求愛の受諾とみなされた。前六世紀はじめごろから饗宴の場で用いられた抒情詩にも、少年にたいする求愛が歌われている。少年の美は移ろいやすく、少年愛の対象となる期間は五・六年に過ぎなかった。それゆえ、これらの求愛詩は、少年たちがいつまでも恋のかけひきを引きのばすことによって、年を取り、恋愛の適齢期を逃すことを警告している。これらの文学で表明される少年にたいする思慕の情は、饗宴の場で取り交わされたものであり、そこに成人儀礼の痕跡は見出されない。とすれば、少なくとも古典期につながる同性愛の文化は、饗宴に集う上層階級の余暇のなかで培われたものといってよいだろう。

【恋のかけひきとアテナイ民主制】

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少年愛(少年は「贈り物」であるクルミの入った袋を手にしている:前530-430年)At the palaestra Youth, holding a net shopping bag filled with walnuts, a love gift, draws close to a man who reaches out to fondle him; Attic red-figure plate 530-430 BC; Ashmolean Museum, Oxford.

性愛を示すギリシア語はエロスであり、一対の愛人のうち、求愛する側は、能動態でエラステス「愛する男(erastes)」、求愛される年少者は受動態でエラメネス「愛される男(eramenes)」と呼ばれた。同性愛において受動的な立場にたつことは、劣格の立場に甘んじることを意味していた。それゆえ、将来名誉ある市民となる少年たちが同性愛の対象となる場合には、それが少年たちの名誉を損うことがないよう、求愛のプロセスが一定の規範にしたがうよう、細心の注意が払われた。ケネス・ドーヴァーは、それをたとえて、現代における、女性にたいする男性の求愛行動と相違ないものであったと述べている [ドーヴァー、一九八四]。つまり、求愛する側は、求愛の相手を降参させることで、相手だけではなく勝利の栄誉を手に入れることができたが、求愛に応ずる側には、誘惑に屈服することによって名誉を損なう危険性があったからである。能動的市民となるべき若者にとって、求愛の対象となることは名誉なことであったが、いったん求愛をうけいれ受動的な立場で肉体的な関係をもつことは、市民倫理からの逸脱と不名誉の危険を伴っていた。問題は、その駆け引きの着地点として、両者の名誉を損なわない性愛のかたちがどのようなものであったかである。肉体的な関係がどの程度承認されていたかをめぐって研究者の見解は対立している。少なくとも同性愛の関係が社会的倫理に照らして妥当であるためには、求愛する側の品性と、少年を善導する教育的可能性が不可欠であったことを忘れてはならない。

アテナイの場合男性の成人年齢は一八歳であったが、結婚年齢は三〇歳前後であった。成人後結婚までのあいだモラトリアムの状態におかれた上流の若者たちが、年少の少年たちのだれかれをひいきにして、体操場に連れて行ったり、品評しあったりする場面をプラトンが描いている。しかし、たとえカップルが成立したとしても、その関係は永続的ではなく、少年が受動的な立場で同性愛の対象として欲望される期間は、少年に髭が生えるまでの一二歳から一八歳までの短期間であった。この年齢を超えて、いつまでも受動的な立場にあることは、男性市民にふさわしくないことであった。

一方で能動的な立場に立つ限り、同性愛に年齢制限はなかったようである。弁論家のアイスキネスは中年になっても少年を愛人としていたと認めているし、悲劇作家エウリピデスは六〇歳を過ぎてなお少年と野外で同衾しようとして、逃げられている。しかしこのような個人の性的嗜好が許容されていた一方で、結婚は社会的責務であった。アテナイの市民を再生産し、家を維持するというために嫡出子をもうける必要があったからである。子供時代を経て、一二歳以降髭が生えるまでは「愛されるもの」として教育係の若者との関係をとりむすび、やがて一八歳で市民権を与えられるころには、今度は教育係として少年に求愛する側に立つが、市民としての重みを増す三○歳ころには一家を構えて妻帯する、というように、市民としての立場の変化に呼応して性愛における立場も変化していくのが、アテナイ市民男性のライフ・サイクルであった。性交の実態には留保が必要だとしても、同性愛的な関係はアテナイ社会の構造に刻み込まれていたといえるだろう。

クセノフォン(Xenophon)は、父親たちが少年の愛人関係を監視し、息子をふさわしい相手と組み合わせるように配慮したと伝えている。要するに、品性高く、節制をもって若者をよき市民へと教育することのできる関係であれば、父親たちもそれを歓迎したのであった。

【法的な制約と倫理的な制約】

それを裏付けるのが、同性愛を前提とするアテナイ法の存在である。「ヒュブリス(hybris)の法」は、異性愛と同様に、少年との性愛にともなう侮蔑的行動を、市民倫理にもとるものとして重罪に処するものであった。また、アテナイ法は、少年にたいするレイプや、身分を踏み越えた誘惑や、学校教師による体操場での誘惑を不適切とみなしていた。非対称な関係であってみればなおさら、奴隷が能動的な立場に立つような、少年のあいだの倒錯した関係は忌避されなくてはならなかったのである。父親たは、不適切な誘惑から少年たちを守ろうとしたが、異性愛の場合にも、市民の妻女たちは、不適切な誘惑から守られながら、家長の手で適切な相手と婚約させられた。法は、同性愛ではなく、不適切な誘惑を禁止している。

また、男性の売春は、職業的売春婦と同様に扱われていた。壺絵には、売春婦パラケと区別なく、奴隷少年が「受け入れる」性交の光景をあからさまに描かれている。男性による売春は市民権剥奪につながった。弁論家アイスキネス(Aischines)にいわせれば、体を金で売るものは、政治的発言も金で売るものだからである。先に、エチケットに適った求愛の贈り物が小動物であったと述べたが、現金ではなく贈り物であることが重要であって、金で体を与えることは、金銭で言葉を売ることとならんで、能動的市民としての正当性を疑わせることになった

同性愛と異性愛の別よりも、むしろ問題であったのは、性における能動的立場と受動的立場の区別であった。同性愛にせよ異性愛にせよ、成人した男性は、能動的立場にたつべきものとされていた。それにたいして女性や年少の少年たちの役割は受動的であった。能動的な立場の男性たちと、受動的な立場の少年たちのあいだには、欲望を抑制することで、欲望の対象である互いの価値を高めあう、根くらべ的な求愛ゲームが繰り広げられていた。壺絵が伝えるのは、少年たちは愛人を積極的に受け入れながらも、性的な興奮を帯びた姿では描かれてはならなかったということである。フーコーは、『性の歴史』の第二巻、「快楽の役割」[フーコー、一九八六]において、ギリシアでは同性愛は排除されていなかったが、欲望を抑圧することが尊重されていたとして、同性愛をめぐって繰り広げられる言説に、快楽の抑制に価値を見出す倫理的価値観を見出している。

同性愛はギリシア社会の構造の中に組み込まれていた。同性愛的嗜好性が強い男たちは存在していたが、同性愛者という社会的範疇は存在しなかったように思われる。生来の同性愛者と異性愛者のあいだの線引きはなく、男性はその人生の過程で比重を移しつつ、市民としての男らしさの規範が許す限りで両方にかかわっていたのである。

補遺

ギリシアの同性愛についての邦語文献として、M.フーコー『性の歴史 2 快楽の役割』と古典学者であるK・ドーバー『古代ギリシアの同性愛』を挙げておきたい。その後の展開については、D・M・ハルプリン(石塚浩司訳)『同性愛の百年間』が参考になる。ほかに、同性愛に限らず性をめぐる支配をあつかったものとして、『ファロスの王国』をあげておきたい[クールズ、一九八九]。また、古典ではアイスキネス『ティマルコス弾劾』が、同性愛をめぐる同時代的な見解を伝えるものとして秀逸である。

引用文献

E・クールズ『ファロスの王国 古代ギリシアの性の政治学』中務哲郎・下田立行・久保田忠利訳、第一巻、第二巻、岩波書店、一九八九年
M・フーコー『性の歴史 Ⅱ 快楽の役割』田村淑訳、新潮社、一九八六年
K・ドーヴァー『古代ギリシアの同性愛』中務哲郎・下田立行訳、リブロポート、一九八四年
D・M・ハルプリン『同性愛の百年間ーギリシア的愛について』石塚浩司訳、法政大学出版会、一九九五年
Eva Cantarella, Bisexality in the Ancient World, Yale University Press, 1992

(図像は三成が追加しました)

※栗原麻子:大阪大学大学院文学研究科准教授・専門は古代ギリシア史

【参考】

indexけんりょく⇒出典
服藤早苗・三成美保編『権力と身体』ジェンダー史叢書第1巻)、明石書店、2011年

⇒関連項目
*【総論6】男性性(マスキュリニティ)の歴史(三成美保)
*【セクシュアリティ】旧約聖書にみる同性愛禁忌(ソドムの町)と近親相姦(ロトの娘たち)(三成美保)

⇒参考文献
栗原麻子「民主制下アテナイにおける『おんな男(ホ・ギュンニス)と『男のなかの男たる女(ヘ・アンドレイオタテ)』」(『西洋古代史研究』14、2014年)