女が書く/女を書く~ゲーテをめぐる女たち

三成美保 (掲載:2014.03.20)

◆書かれた女

30歳代のゲーテ

その娘が「体が裂けるようなすごい痛み」を感じたとき、血が両足を伝って流れた。強度の生理痛だと娘は思った。しばらく月経が止まっていたから、一挙に血が涜れたのだろうと。仕事の手は止められない。洗濯場に灰(石けんのかわり)を運び込んでいると、子どもが「洗濯場の石の床板の上に突然生まれて落ちた」。

娘の名はズザンナ。ドイツ中部にある帝国都市フランクフルトの小さな宿屋に勤めて 2 年半になる。ある商人の従僕が彼女に目を留めた。部屋に呼び、ワインを飲ませてレイプ。客はそのまま宿を去り、ズザンナの腹に種が宿った。堕胎は非合法。性そのものがタブーとさ れる時代、娘に性知識は乏しい。つわりも陣痛もそれと自覚しないまま、ズザンナは子を産み落としてしまった。医者も姉も彼女の妊娠を見抜けなかった。「仕事を失うのを怖れて妊娠を隠した」との官選弁護人の弁護空しく、ズザンナは子殺しの罪で公開斬首刑に処せられてしまう。1772年のことである。

◆女を書く

ファウストとグレートヒェン(1861年)

裁判に強い衝撃を受けた青年がいた。弁護士資格をもち、眉目秀麗なその青年こそ、ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ(1749-1832年)。彼の筆により、哀れなズザンナは永遠に名を残すことになる。『ファウスト』(1808/33 年:初稿1775 年頃)を彩るグレートヒェン悲劇のモデルとして。だが、2人の女性は似ても似つかない。

悪魔と契約したファウストに誘惑され、子を宿して捨てられた「汚れなき乙女」グレートヒェン。ゲーテが描くヒロインは、か弱く、慎ましく、美しく、愛にあふれ、善意に満ちている。弱さや愛は女ならではの「美徳」とされ、1770 年代に「美しき女らしさ」とよばれて大流行した。それは廃れるどころか、その後2世紀にわたり、教養ある男たちの女性イメージを支配してしまう。「女は放縦で悪魔の手先J と決めつけていた 17 世紀までの女性像とはなんという違いか。

だが、生身の女は魔女でも聖女でもない。もっとタフでしたたかだ。ズザンナも働く女性だった。ゲーテの周りにいた女たちもみな強い意思をもち、理不尽な偏見や抑圧と挌闘した女たちである。

◆コルネリア

コルネリア

ゲーテ兄妹の父は、官職につけないストレスのはけ口を子に向けた。彼は徹底的な教育を通じて、「父に従順な教養ある娘」という作品を作り出そうとしたのである。当時の裕福な市民家庭の例にならい、兄妹には個人教師がつけられた。妹コルネリアは3歳のときから兄ヨハンと同じ教育を受けて育つ。

女性が書き手として登場したのは、18世紀前半の初期啓蒙主義の時代。1770年代とは違って男女平等が唱えられ、職業女性が賛美された。「文学教皇」ゴットシェート( 1700ー66年)も作家の妻をもった。社会や家族と闘う女性を描いた小説を好んだコルネリアは、自らも書こうとした。だが、挫折は唐突に訪れる。作家になりたいという妹の長年の夢を、一番の理解者であるはずの兄が「女らしさ」に欠けるとして一蹴したのである。

コルネリアは、結婚によって「父の支配」から逃れようとした。だが、待っていたのは「夫の支配」。兄の友人で弁護士、11 歳年長の夫シュロッサーは、コルネリアが受けた教育を「間違い」と断じ、彼女を矯正しようとした。被が妻に望んだのは、「愛情」と「家庭」であった。シュロッサーは論文「女性のための世界史の計画と挫折」(1776 年)で、学識が女性を怠けさせると述べ、学校教育の「女性化」を避けるよう提言した。明らかに妻コルネリアが念頭にある。夫婦仲がうまくいくはずもない。周りの男たちが期待する「母性」や「女らしさ」になじめず、家政管理者としての役割も果たせなかったコルネリアは、第二子を出産してまもなく27歳の短い生涯を閉じた。

◆シュタイン夫人

シュタイン夫人

1775年、26 歳のゲーテは、宮廷都市ワイマールを訪れる。そこで出会ったのが、7 歳年上のシャルロッテ・フォン・シュタイン。彼女は、摂政アンナ=アマーリア公妃に仕える女官であった。貴族出身で教養豊か、すこぶる誇り高い。ゲーテは彼女を崇拝した。

貴族夫婦の常として、シュタイン夫妻の聞に愛情はなかったが、子はほぽ毎年のように生まれた。娘 4人は早世し、育ったのは息子3入。子の相次ぐ早世は、出産を忌まわしい記憶としてとどめたらしい。彼女は、息子の妻が妊娠したときも「お気の毒」と書き送っている。「母性」とは縁遠いシュタイン夫人であったが、ただ一人自ら授乳した末息子だけは別だったらしい。彼女はその子を偏愛した。彼の個人教師がゲーテである。

◆クリスティアーネ

妻クリスティアーネと息子アウグスト

性病感染を極度に恐れていたゲーテは、30歳半ばのイタリア旅行まで性体験をもたなかったという。イタリア帰りのゲーテと理知的で謹厳なシュタイン夫人との間には溝が生まれた。ゲーテはまもなく若い愛人をもつ。落ちぶれた学者家系に生まれ、生計のために造花をつくっていたクリスティアーネである。ゲーテは彼女と内縁生活をはじめた。身分違いの内縁関係は、ゲーテの評判をひどく落とす。シュタイン夫人は、クリスティアーネを嫌った。

「ベッドの恋人」とさげすまれたクリスティアーネはとくに美しいわけでも、抜きんでた文才をもっていたわけでもない。ゲーテがもっとも愛した女性であったにもかかわらず、あまたあるゲーテ論はクリスティアーネについてほとんど書いていない。性的魅力が「美しき女らしさ」と相容れなかったせいだろう。彼女が中傷をものともせず、有能な家政管理者としてゲーテを支えたことは、歴史に埋もれてしまったのである。

◆ヨハンナ

ヨハンナ・ショーペンハウエル

1806年、ふたりの女性がワイマールで出会った。30年近い内縁生活を経てゲーテと結婚したクリスティアーネとヨハンナ・ショーペンハウエル。ヨハンナの息子アルトゥル(1788ー1860年)は、晩年の随想「女について」で、女性を「二級の性」よばわりし、「度しがたい俗物」だとこき下ろした。母との不和が根にある。

夫の死後、ヨハンナはワイマールに移り住み、サロンを主宰した。最高の賓客がゲーテ。「よき聞き手」としてサロンを成功させたヨハンナは、やがて紀行文作家としてデビューする。その3 年後、息子が博士論文を携えてやってきた。息子いわく、「お母さんが書いたものが、紙屑拾いの籠の底にも残らないようになった時でも、わたしの本はやっぱり読まれますよ」。母は応じた。「そうかもしれない。その時になっても、お前の本は初版のままでいつでも本屋で買えるだろうからね」。このやりとりの翌年、母と息子は訣別した。

◆女が書く

ルイーゼ・オットー

ゲーテが生きた時代、女性が書くジャンルは紀行文か小説に限られた。プロの書き手になるなどは、夫をないがしろにするとして御法度。 1848年革命時、ドイツ初の女性ジャーナリストとなったルイーゼ・オットーもまた当初は男性名で寄稿している。女性が学術の世界に入るのはさらに半世紀後。「女が書く」ことに制限がなくなるまで、かくも長い年月がかかった。いまこうして思いのままに書ける幸せを改めてかみしめたい。

 

 

 

 

 

◆参考文献

三成美保『ジェンダーの法史学ー近代ドイツの家族とセクシュアリティ』勁草書房、2005年
S.ビルクナー(佐藤正樹訳)『ある子殺しの女の記録ー18世紀ドイツの裁判記録から』人文書院、1990年
菅利恵『ドイツ市民悲劇とジェンダーー啓蒙時代の「自己形成」』彩流社、2009年
ジークリット・ダム(西山力也訳)『奪われた才能―コルネリア・ゲーテ』郁文堂、1999年
エッカルト・クレスマン(重原真知子訳)『ゲーテが愛した妻クリスティアーネ』あむすく、1998年
カローラ・シュタイン(宮本絢子訳)『わたしがこの世で望んだすべてーヨハンナ・ショーペンハウアーの生涯』鳥影社ロゴス企画、2011年
フリードリッヒ・ヴァイセンシュタイナー(山本丈訳)『天才に尽くした女たち』阪急コミュニケーションズ、2004年

初出:『学而』(摂南大学図書館報)93号、2012年:一部加筆修正)