【法制史】糾問主義(三成美保)

2014.03.25(執筆:三成美保/『法制史入門』一部加筆修正)

糾問主義 

糾問主義の起源は、中世の異端審問でとられた手続である。それは、最初はかならずしも拷問をともなうものではなかったが、しだいに、自白をひきだすために拷問とむすびついていく。近世の刑事事件では、なお理論上は被害者訴追主義(弾劾主義)を原則としていたが、実務の上では、ほとんどもっぱら糾問主義手続が利用された。近世糾問手続の特徴を、17世紀にヨーロッパ中でおこなわれた魔女裁判を例にみておこう。

まず、被疑者の逮捕については、私人による告発もなおありえたが、中心は、職権による逮捕へとうつっている。逮捕の根拠は、密告、世間の風評、間接証拠である。逮捕後、牢に収容されて、尋問がはじまる。尋問は、取り調べを兼ねた裁判であり、職業裁判官(主席尋問官)と参審人(陪席尋問官)、裁判所書記が臨席する密室でおこなわれる。実際に尋問するのは、もっぱら職業裁判官である。

尋問は数日ごとのペースで、すみやかに段階をおってすすむ。初回は容疑の確認であり、次回に証人との対面がおこなわれる。第3回めに、尋問室に拷問具をもった刑吏が入室して、威嚇する。10日間ほどの熟慮期間がおかれたのち、第4回尋問で容疑を否認すると、それ以降の尋問ではほとんどつねに拷問が加えられる。指締め、足締め、紐吊るし、張り台伸ばしなどの拷問が、軽いものからしだいに重いものへと順にすすむ。

【史料】『テレジアーナ』(1768年)に見る拷問方法

拷問をともなう尋問の目的は、自白をひきだすことである。拷問は、すでに中世後期に都市でも利用されていたが、当時は非市民にたいして行われる不名誉なものであった。しかし、近世に「自白は証拠の女王」とされた結果、拷問は、刑事手続のもっとも重要な要素となっていく。自白が得られると、その内容が書面にしたためられる。被告が「自由意思で」書面内容を確認すると、尋問は終了する。裁判所の判断が困難な事件のばあいには、法律顧問や大学法学部に鑑定意見が求められる。刑罰を加える当日、処刑・処罰にさきだって、民衆が見守る中、広場などで被告の罪歴と刑罰を書いた判決文が読み上げられる。その後すぐに、被告は刑場にひきたてられ、公開で刑罰が下されるのである。

自白は、中世のように神判や雪冤宣誓にもはや頼れなくなった結果、より合理的な証拠として重視されるようになった。しかし、啓蒙主義がひろまるなかで、拷問が冤罪を生むことの危険性がしだいに意識されはじめる。たとえば、ハレ大学教授の自然法学者トマジウス(1655-1728)は、1701年、魔女罪は成立しないと主張し(⇒【史料】トマジウス『魔女罪論』(1701年))、1711年、拷問廃止を訴えた。このような糾弾をうけて、プロイセンやオーストリアの啓蒙専制国家では、いちはやく魔女裁判も、拷問も廃止されていく。

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